戦争はいかに終結したか

戦争はいかに終結したか
二度の大戦からベトナム、イラクまで

千々和泰明 著

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/07/102652.html

偶発的であれ意図的であれ、一旦戦争が始まってしまえば、どちらかが完全に壊滅的状態になるまで終わらないというわけではない。そこには外交的努力や経済的な力学も作用し、「うまい終わり方」が双方にあるはずである。

しかし戦争を議論するとき、抑止の議論、防御、攻撃の方法、武器や兵站、第三国との同盟関係、などが話題に上がるが、どのように終わらせるかという議論は寡聞である。そもそも始まっていない戦争をどう終わらせるかという議論は無意味なのかもしれないが、現下のウクライナとロシアの情勢を見ると、むしろこの戦争はどう終わるのかという点がとても気になるところである。

著者は、紛争原因の根本的解決と妥協的和平の間で揺れ動くという視座で、本書での戦争終結を議論している。
様々な研究の中で、戦争終結を議論されている類型は、

  • 権力政治的アプローチ(つまりパワーポリティクス)ー力により相手を打倒した側が勝つという考え方。これには損害を受忍できる限界がより大きいほうが勝つという。

  • パワーバランスの変化ー同盟関係などが破棄される、あるいは第三国が介入するなどで不利になる側が終戦を求めるという立場。

  • 合理的選択論的アプローチ(妥協)ー交戦勢力間の合理的な費用対効果分析の帰結点で戦争が集結するという考え方。

  • 合理的選択論的アプローチ(紛争の根本原因の除去)ー無条件降伏など

いずれも一長一短あり当事国は、現在の犠牲の拡大と将来の危険の大きさとのジレンマに陥ることになる。著者はこのジレンマの中にリスクのバランスを見出して戦争終結の型を議論しようとする。

題材として、第一次大戦のロシアとドイツ、第二次大戦のドイツと英国そして日本、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争が取り上げられているが、その背景をよく知らないと読むのが難しいと感じた。


村野藤吾と俵田明 革新の建築家と実業家

村野藤吾と俵田明 革新の建築家と実業家

堀 雅昭(ほり・まさあき)

320頁
978-4-86329-228-4
定価 2200円 (+税)
2021.8.15発行

https://genshobo.com/archives/10506

村野藤吾は小倉出身の世界的建築家であり戦前の若い頃に宇部市の渡辺翁記念会館を設計した人物である。また最後の作品とされるのが同じく宇部市の宇部興産ビル(渡辺翁記念会館の斜め前にある)という縁。
俵田明は宇部興産創業にも関わり、本書では村野のスポンサーとして位置づけられている。

また著者は宇部市で活躍する郷土史家でもあり地元に関する作品を多く書いている。

本書は宇部市制施行百周年となった2021年に出版され、明治から石炭によって発展していった宇部の近代史を二人の人物を通じて学ぶには良い教材となる。宇部とドイツのナチスとの関係や作品への影響などにも触れられており、決して地元讃美だけの内容ではないが、一地方都市の栄枯盛衰を知る上でも役に立つ。

尖った芸術家に対してパトロンが果たす役割も本書を通じて知ることができよう。


犬神家の戸籍 -「血」と「家」の近代日本

犬神家の戸籍
-「血」と「家」の近代日本-

遠藤正敬 著

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3609

あの横溝正史原作、犬神家の一族に出てくる人間関係を戸籍という視点から題材に、戦前戦後に亘る戸籍制度の変遷が犬神家の財産相続に与えた影響を、真面目に論じている。

日本の戸籍制度は「家長」が絶対的な権限を持っていると言われているが、その意味するところは婚外子の扱いや養子縁組の中で明らかにされる。

婿養子という制度が世界的に見て極めて珍しい(儒教の影響があるとはいえ、韓国や中国ではそういった制度はない)ことなど、目から鱗が落ちる話が満載。

それ以上に、この解説を読んだ後に「犬神家」を読むか観るかすれば、また新たな楽しみ方ができるのではないか。なにせ、著者はこの原作をとことん読み込み映画と原作との違いなども随所に触れている。


逆説の日本史24 明治躍進編 帝国憲法と日清開戦の謎

逆説の日本史24 明治躍進編 帝国憲法と日清開戦の謎
https://www.shogakukan.co.jp/books/09407078

23がひどい内容だったので著者も力尽きたのかと心配していたが、24巻は元の筆致が戻ったので安心した。

明治憲法制定から日清戦争までの近代通史。


大本営発表という虚構

大本営発表という虚構
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436375/
保阪 正康 著

本書は先般、松山に所要で出かけた際に大街道入り口にあった明屋書店に立ち寄った際に見出したものである。折しも広島原爆忌の前日であり、前日は坂の上の雲ミュージアムにて明治の理想国家建設の一端を見てきたばかりだったので、その末期症状とも言える大東亜戦争とその中での象徴的事象でもある大本営発表という文字が眼に入ったのだろう。

大本営発表の始まりは、昭和16年12月8日の海軍による真珠湾攻撃と、陸軍による東南アジア進出、つまり大東亜戦争の開戦を告げる国の公式発表だった。

当初は客観的に事実を告げる内容だったものが、戦局の悪化に伴い内容を糊塗するようになり、次第に自らを欺くまでになっていく。

今日では組織の上層部が発表する「大風呂敷」とか行政が発する「住民のために・・・」といったメッセージに実態が伴わないことを大本営発表と揶揄することがある。流行り言葉で言えばフェイクニュースだ。

著者の研究では、陸軍参謀本部と海軍軍令部との権力闘争、幹部の責任逃れ体質、国民受けを狙ったメディアなどの要素が絡み合って、大本営発表という大きな虚構が成立したという。

そこには国民を思考停止状態に陥れる以下のような枠組みがある。

1.教育の国家統制
2.情報発信の一元化
3.暴力装置の発動
4.弾圧立法の徹底

これに抵抗しあるいは抜け出そうとするものは、
5.共同体からの放逐
6.生活圏の収奪
という報復を受ける。

こういった仕組み(これは意図してつくったと言うよりはある意思がこのような形になってしまったと言うべきだが)がある国や地域は21世紀のいまでも存在するので、日本の教訓は世界史レベルでは活かされていないというべきだが、そもそも日本でも1〜6に近い状態やあえてそれを求めようとする動きをする者や政党もいないわけではない。

もともと東亜の解放を名目に開戦した日本だが、本来の大戦略(つまり軍事を超えた政治的な目標到達地点)を持たないまま戦争に入ってしまったため、軍部は勝つことだけが目標となってしまい、戦略的に負けたり引いたりすることもできなくなったという面もある。そこは政治の責任であり選挙民の責任でもあるが、ともかくも良識が通らない組織というものの恐ろしさを歴史から学んでおくことは、歴史を繰り返さないためにも肝要である。