令和の幕開け

新天皇陛下が国民に対して皇位継承を宣言された。ここに令和の幕が開いた。

思えば、平成になった頃は学部の卒業論文を書き終えてホッとしているときであった。それまでは、昭和天皇のご容態芳しくなく、連日のように体調のご様子がテロップで流れており、その頻度も増していく中で、国民はいつ来るかもしれないその時への覚悟を固めていった。正月の松の内気分もない中で崩御の知らせがあったが、戦争までの20年と復興から高度成長を経てバブルまでの40年の昭和時代は激動と言うに相応しいが、平成はバブル崩壊から始まりジワジワと国が成熟していき国力を失っていくときだった。

自分の就職は平成元年。昭和62年に会計士試験に合格したので、直ぐにアルバイトを始めてそのままそこに居着いてしまったから、就職したという実感は全くと言ってよいほどなかった。しかし振り替えるとまさに平成の時代と共に職業人生を歩んできた。

最初に担当した銀行はバブル真っ最中だったが、ブラック・マンデーによる株価下落と不動産不況により急に業績が厳しくなった。
その後、株式公開業務を担当したが、いまのような若いアントレプレナーが情報技術を活用して起業するのではなく、(いまは鬼籍の)老経営者が行く末を案じて株式公開を決めた建設会社で、会社を動かす難しさというものを若いながら肌で感じることができたのは幸いだった。
その後、通信会社を長く担当することになったが、自由化政策による組織再編や、有線から無線への技術転換による世の中の変遷の最前線を見ることができた。しかしそのときはまだスマートフォンもなかったし、個人でインタネットを使うなど考えられない時代だった。

その後の社会の大きな変化は、いわゆる情報化社会に転換する時代だった。失われたものがあるとすれば、人が身体を動かしたり自分の感覚で捉えていた知識が、情報技術によって習得しなくてもやっていけるようになったということだろう。あまり言われないが、字を書かなくなったため漢字が書けないことに劣等感を覚えることもなくなった。便利な世の中になったとも言えるが、見えているものが技術に置き換わった以外にも、見えていないもので失ったものがたくさんあるのではないだろうか。

時代が変わる中で、譲位と即位とが皇室の伝統を踏まえた儀式として営まれたが、ちょうど伊勢の式年遷宮が宮大工の技能を伝承する意味が多分にあるように、われわれの挨拶や作法と言った日常的な振る舞いの中にも、気がついていない何かを伝承している意味があり、また失っているものがあるのではないだろうかと感じた。

さて、新天皇の即位。年齢は59歳ということで来年は還暦を迎えられるが、そういう年齢で重大な役割を引き継がれることに対して、万世一系の命運とはいえ尊敬と畏怖の念を抱かざるを得ない。自分は52歳で相対的には若いが年を取ったつもりでいることに羞恥を覚えた。
国民と共に新しい時代を創ろうという気概を感じる新天皇陛下のお言葉に応えるというと実におこがましいが、自分も一国民として微力ながらできることをやっていこうという清々しい気持ちになった。共に令和の時代を迎えられたことを喜びたい。


お役所だってSEO

SEOとはSearch Engine Optimizationのことで、技術専門的なことはよくわからないが、Googleなどの検索サイト(サーチエンジン)にいかに都合よく検索に引っかかってもらえるかを目指す技術らしい。マーケティングでは検索サイトのトップに載ればそれだけ商品を見てくれる人が増えるわけだから、売上の多寡に影響する重要な話しである。

技術の利用という意味では、「知ってほしい人に知ってもらう」技術でもあり、マーケティング以外にも使い道はある。

今日は売上には関係ないが、言い換えれば国家の売上ともいえる税金に関する話。
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赤信号、皆で渡れば怖くない

30年位のTV漫才ブームの時のツービート(いまの映画監督の北野武)のネタがオリジナルだろう。
赤信号を横目に道路を斜めに渡りながらこう考えた。
問題
あなたは今、横断歩道にいて道を横切ろうとしているが、赤信号のため渡れない。
さて、次の行動として最も安全に渡るにはどうすればよいか?
1 急いでいるので思い切って渡る
2 他の人が渡ってれば自分も渡る
3 信号が青になるのを待ってから渡る
4 車が来ないことを確かめて渡る

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自分が自分であるとどうやって証明するのか

被災者には上限があるものの預金者であることを証明できれば通帳等がなくても引き出しができるようにする措置が採られている。
しかし、被災した人が必ずしも身分証明書を持って避難したとは限らない。むしろとっさに退避行動をとるときに身分証明書を持つなんてことは考える人はいない。
自分が同じ立場だったらさぞ困るだろう。
例えば職場の同僚を連れてきて、「この人は間違いなくXXXXさんですよ」と言ってもらってもそれが本当かどうか分からない。まして、実は同僚もぐるかもしれないし。
実は、「私がXXXXである」というセンテンスには二つの命題が含まれている。
命題1 「私」という自然人には、親がXXXXという名前をつけた。
命題2 権利者であるXXXXとは、ほかならぬ「私」という自然人である。
しかし命題1はその後に、「と私は信じて今まで生きて来た。でも戸籍と私とを繋ぐものは本籍地に住んでいるということしかない」が続く。
命題2は、他にそれを主張する人がいない限りは真であると推定されるが、そうでなければ争いになる。つまりは争いのない世界は相手の主張を信じることで成立しているわけで、信用を得る努力(リターンを得る)とともに信ずる努力(リスクをとる)も必要だとわかる。
人は「いまここ」にいる人たちと信じあわない限りは、存在すらし得ないものなのかと思うと、認知症になったら自分の名前も分からなくなって、どうするんだろうなと不安になる。


財政の健全化

事業仕分け関係のニュースが最近よくでてくる。政治として政策上の無駄の排除や重み付けは、政権の責任であり当然すべきことだ。自民党は自らの政策が利権構造を形成してしまい、それが壊せないまま足かせとなって自滅してしまった。小泉改革はその利権構造を、票田である特定郵便局の廃止などを織り込んだ郵政民営化をシンボルにして変えようとしたが、利権構造が駄目だとわかっていつつ利権構造のおこぼれで飯を食っていることに気がついた「浮動票」につぶされた。
民主党は新たな政策を織り込んでマニフェストというお題目を掲げ政権を取ったが、やはり財政難の折、自民党が強く主張していた財源問題に触れざるを得ず、増税に対する世論懐柔策として「事業仕分け」という劇場を演じている姿は、小泉劇場と何ら変わりはない。
「入るを図って出を制す」は組織体運営の基本中の基本で、国家であれ、家計であれ、公開企業であれ特殊法人であれ、NPO法人であっても、至極当然のことで、要は金は入る以上には使えないのである。きちんと議論すればいい。しかし議論が「いまの収支」に終始し、本来あるべき国富をどう形成し将来負担をどう減らしていくかというバランスシート(財政構造)に着目した議論が一向に聞かれないの、片手落ちであろう。
例えば、国債発行は将来の世代での負担だから、将来の生産増に伴う税収増によって解消されることが前提だが、そもそも少子高齢化社会を云々する議論はあるが、少子高齢化の結果として将来の生産性がどうやって増加するかという議論は、国債発行の議論でまったく聞かれない。たぶん学者などほんの一部の専門家が議論している中で、政治的にもみ消されているのだろう。国家財政は破綻しているとは、官僚は誰も言わないし、政治家も触れるはずがない。すくなくとも、最長期間の国債発行高の利払い・償還計画に見合った税収計画が必要で、八千万人程度の人口規模に向けての国家縮小に向けた財政規模の縮小議論を、経済成長という数字(GDP)の魔物と闘いながらしていかねばならない。
残念なことに、そういう議論は次の選挙の票には結び付かないのだった。さてどうなる。