漢倭奴国王から日本国天皇へ

2018年9月24日読了

日本の国号あるいは天皇という称号が、いつ頃からどのような使われるようになったのかを軽快な筆致で著述。これまでの研究との相違は中国学の立場からの検討がされているところ。さすが京大人文研、あっという間に読ませる。

倭とは東の向こうの方にある地域を指す。日本側ではヤマトと読む。

後漢光武帝から漢倭奴国王の金印を「賜った」頃から魏志倭人伝「親魏倭王」の頃は、いわゆる朝貢外交により国外に権威を求め統治の基礎となしていた。邪馬台国は「ヤマトのくに」であり、外交上の記号としての倭と国内のヤマトは必ずしも同一である必要はない。

倭の五王のワカタケルの頃に、倭王の権威としての王号も「東征将軍」「治天下大王」など朝鮮進出への足がかりともなる権威を得る一方、大陸側は徐々に権威を失い外交関係は冷めていく。一世期程度の空白を置いて、大陸側は漢王朝ではなく随が統一。遣隋使「日出処」あたりから、権威を求める外交から姿勢の変化があり、対等の関係を模索。与えられた名前である倭や倭王を忌避するようになる。

白村江の戦いに挑むまでになったが唐の軍に大敗。国内体制の再構築を急ぐ必要から、壬申の乱で天武朝となり飛鳥浄美原令あたりから天皇の称号と日本の国号が「外交上」使われるようになった。

外交上の「記号」がなんであれ、国内では、スメラミコトとヤマトという言い方であり、内外のダブルスタンダードだった。

日本独自の大宝律令あたりから、日本国天皇という国内支配体系の頂点としての天皇が完成する。

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