理科系の読書術

2018年12月30日読了

筆者は著名な地質学者で京都大学で教鞭をとる。「読書が苦手」と訴える教え子が多いことを憂い、本書を著したと言うが、京大理科系といえば東大を凌ぐ日本の秀才が集まる場所。俄に信じがたい。

読み進め、概ね7割程度は自分自身も実践している内容でもあったので、腹落ちした。

筆者に言わせれば、読書には生産的読書と消費的読書とがあり、前者は論文を書いたり仕事のための取りまとめをしたり、手段として読書をして何かの結果を出さねばならない時に使い、後者は読書自体を愉しむことをいう。つまり小説は音楽を聴くのと同じようにそれ自体を愉しむものであるから、最初から最後まで読まなければ読書にならないが、生産的読書はあくまでも目的に応じたところをいかに手間をかけずに読み取って成果物につなげるかという考え方が必要だとする。これを「楽をする」という表現している。言い換えれば、生産的読書にあっては全部読む必要もなければ、順番に読む必要もないし、通読しても誰も褒めてくれないし、すごいことでも何でもない。

タイトルにある「理科系の」という意味は、まさに論文や報告をするために必要な読書を意味していて、筆者によれば理科系は生産的であり文科系は消費的なのだそうだ。かなりなステレオタイプだが、このように文章として対立項を明らかにして読みやすい工夫がしてあるので、わかりやすく読める。如何にも理科系向けな書き方ではないか。

買った本は全部読もうとか、読まなければならないという強迫観念は、「知的完璧主義」でそもそもそれは不可能なので諦めろとも。そして生産性の高い読書をするために、書物の筆者の「フレームワーク」を掴むように読めば、比較的わかりやすく読めるし、逆に読みづらい本は「はっきり言って著者が悪い」のであるから、相性が悪ければ読まなくても良いとする。さらに、もともと知識がない本は読むのが難しいので入門書から読んで理解すべき大枠を掴んで難しい本に入って行けとか、原書は読むに越したことはないが生産的読書にあってはそれは必ずしも要さないとする。

世にある読書術の本、特に速読術の本はストレスが貯まるばかりで自分に合わない読み方をしても効果が薄いとバッサリ。
論文書くためには、本に随時参照先を記入していき、表紙の裏に参照文が書いてあるページを簡単な言葉とともにメモしておくと、後から探しやすいという。但し、これも「適当に」やることが大切で、とかく綺麗にとかパソコンでというような話になると、かえってそれが目的化してしまい、ストレスになるからやめたほうが良いという。つまり、知的な読書とは逆に読書の目的から外れる作業に頭を使わないようにしろという。

最後の一点として、本は捨ててもまた買えるので、思い切って処分したほうがよいという筆者の主張には、必ずしも同意できなかった。一度使った(論文等で参照した)本は再度読むことは殆ど無いし、昨今は古本もネットで入手しやすくなったと言いつつも、筆者自身が納得してない「雰囲気」を文章から感じてしまったからだ。別のところで「本は読みたいと思った時に買っておかないと、後で入手しづらくなる」とある。これは本買いが読まない本を積んでおく最強の論理であり、そうである限り「捨てる」ということは有りないのである。これが文系的な読み方である。

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