増補責任という虚構

2020年9月13日読了

責任という概念は、人間の自由意思に基づいて選択した行動の結果に対して責を負うという前提がある。したがって自由意思がない場合、例えば暴力により強制された場合、精神的に判断力を失っていた場合、不可抗力による場合などは、責任を問われることはない。

逆に自由意思があると認められる場合には、自由意思による結果は当人が甘受しなければならない。ときにそれが他者への迷惑をもたらしたりする場合には損失を補償しなければならないのは不法行為責任を持ち出すまでもないが、自分が命を失ったり実害を受けたような場合であっても「自己責任」などの糾弾を受けることさえある。

著者はこの自由意思という考え方を否定する。さらには自由意思に基づく責任という考えをも。

話はナチのホロコーストにおける処刑の方法がいかに機能的かつシステム的に遂行され、それぞれの実行者が自身の行為が殺人であることを感じさせないように設計されていた話から始まる。それと同じ構造で現代の死刑の執行もされる点が描写される。アイヒマンの「私はただ命令に従っただけだ」にハンナ・アーレントの分析を引用する。

犯罪は社会規範からの逸脱である。ゆえにどのような社会であっても犯罪は永遠になくならない。つまり犯罪とは共同体に対する裏切り行為であり、秩序の破壊に対する反感が現れる限り。この民衆の怒りや悲しみを鎮め社会秩序を回復するために、犯罪を(破棄することはできないので)象徴する対象として犯人が選ばれ、それを罰するという形で秩序が回復される。つまり帰責性があるから罰するのではなく、罰を引き受ける存在が責任者と認められる。ここにタイトルにある「虚構」としての責任概念の必要性がある。

自由意思という考え方も、意思が行動を選択したのではなく、そういう虚構を作り上げることが社会的な判断として、人間存在を理解する形式として必要である。

あまりよい読後感ではない。つまり現代社会は裁判制度などによる冤罪は防がれるようになってはいるものの、犯罪の処罰という点では魔女狩りと同じ論理が底辺にあるわけである。特に公正さなど求められない組織内での責任について考えると、まさに虚構そのものということを改めて思う。

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