古代道路の謎


律令国家は、いわゆる五畿七道を整備するにあたって今のハイウェイに相当する巨大な道路を築造させた。国分寺市に発掘された東山道武蔵路の遺跡などみると、今の東京の道よりよほど立派な道が奈良時代にあったことが実感できる。
一体なんのためにこのような巨大な道路を必要としたのかは、いまだ解明されていない。租税を都に運搬するためにしても、軍事輸送をするにしても、現代の感覚で考えても巨大すぎる。それを地元住民に負担させて維持させたという理由は、中央集権体制の地方での運用を監視する方法だったかもしれない。すなわち、道の乱れをもって地方官の勤務態度をみようということなのか。
工法も側溝があり排水できるようになっているとか、単に踏み固めただけではなく三層構造になって凹凸が発生しにくくなっているなど、即興で作った道ということでも無さそうだ。
これだけの大プロジェクトであるにもかかわらず、記録が残っていないというのも不思議である。
このような道も、地元の負担が大きすぎて次第に維持されなくなっていく。しかし、その片鱗は現代でも旧街道の町並みや土地の区割り、畑のソイルマークとしてなど、地面を掘らなくてもいたるところに残っているようだ。武蔵国分寺から下野に向かう道は浅間山を目印としているので、比較的その場所も推定しやすいため、途上でいろいろな遺跡が発掘されているようだ。いずれ見学に行くとしよう。

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