NHK出版
サブタイトルの「テクノロジーとの共犯」という言葉が気になって購入。
中世の比較的人の往来が自由にできた時代から帝国主義国家が現れて次第に欧州に国民国家(民族国家)が登場する過程を俯瞰する。そして、この国民国家という考え方は、民族や言語を前提としてウチとソトとを分けるという前提に立っていることが、植民地支配に見られるように、ある体制・制度のもとでの閉じた世界では幸福になれるがソトの世界は必ずしもそうではないという関係を招くことから、普遍的な民主主義という考え方とは相容れない点を指摘。
2030年頃(ちょうど定年だ^^;)米国のような巨大・強力な国家が世界を牛耳る時代は終焉しており、かといって中国が代わりに台頭するということでもなく、国家に変わる新しい「場」という概念で人々は活動するようになっている。それは、多国籍企業が更に進化した超国籍企業が場を支配する形で実現されるものの、ひとつの「超国籍企業」だけではなく、NGOなどを含む多層なレイヤー化した場に人々がひとつの場ではなく沢山の場に帰属することによって、世界が形成されるという考え方である。
GoogleやFacebookの登場は明らかにそういう傾向を示しているが、必ずしもこれらの企業が世界を支配しているわけではなく、下から支えるという形で場を作っているという。つまり、テクノロジーがベースにあり、その上でビッグデータが活用され、人々の活動が捉えられつつも、逆に人々もそれを前提として利便性を享受しながら活動している世の中になることを言っている。副題の「共犯」という言葉に込められた意味は、超国籍企業だけが、テクノロジーを使って人を支配するということはなく、各人がその利便性を享受することでお互いがうまく利用されつつ利用することで、様々な場が生まれレイヤーを形成していくことだ。個人の存在は、場と各レイヤーが重なりあってプリズムの中を一本の光が通るような形になり、人は様々なレイヤーに属することでアイデンティティを形成する。そのような社会では、マジョリティとマイノリティという二区分で強者と弱者を定義付けていた時代から、従来はマイノリティとされていた人たちこそ光る存在になるという。
財政危機に見舞われる先進国や増えるテロリズムなど、現代の国家観が必ずしも持続的なものではないことは誰にもわかっているものの、その行き着く先がどこに向かっているのか、不安に苛まされる現代人に対して、新しい社会の形を示すことによって少しの希望を与えようとしているように読めたが、如何。
