スマホ・リテラシ

先に、コンピュータ・リテラシというタイトルで書いた。
似たようなタイトルで同じことを書いても仕方がないが、あえて最近問題になっていることに共通な問題があるように思えたことをメモしておきたい。

コンピュータを使うということは、自分の意思が問われる。コンピュータに使われると言っているうちはまだよいが、コンピュータを使って人を使おうという意思のある人に使われていないかどうかは、よく考える力を付けたい。それがリテラシーというものだ。

ここまでが前回の議論である。

ソーシャルメディアで集められるISISの若者たち、ラインで「友だちができた」と勘違いする子供、通勤電車でゲームに夢中になって隣の人とぶつかって喧嘩するサラリーマン、振り込め詐欺にひかかる老人、これらみな背景にある構造は同じなのではないか。

ISISが宣伝活動(彼らは布教活動なのかもしれないが)にソーシャルメディアを活用していることは、先の日本人の人質殺害事件からもよくわかる。相手の住所氏名を調べなくても、多少の好奇心を刺激すれば自分のサイトに誘導し活動に協賛させる手段としてWEBの仕組みを旨く活用している。またそれは、誰でも使える仕組みとして既に確立されているのがインタネットの世界だ。その知見を彼らは巧みにプロパガンダに使っている。

マンションの入口の階段で小学生数名がたむろしているが、実に静かである。
何やら集まってオンラインゲームをしているらしい。
先日、近所のファミレスで食事をしたら若い女性4人組が隣のテーブルになり、またキンキン声でしゃべると嫌だなと思ったが、意外にも静かだった。みな、手元のスマホで何かをしている。
この人達、いったい何のために集まっているのだろう。

電車でゲームを楽しむ若いサラリーマンは、夢中になっているので自分の腕が他人にぶつかっていることに気が付かないか、気がつくときはゲームの邪魔者と映るらしい。そういうアホの隣に立つことは極力避けたい。しかも、他人の書いたプログラムのインタフェースに魂を奪われてデバイスに向かって腕をあちこち動かしている姿が、ゲーム画面が見えないものからすると、化粧女と同じく如何に滑稽なものか。

携帯電話は固定電話を使っていた人にとってはどこでも通話できるという点では便利な道具である(しかし基地局がないと使えないことを忘れてはいけない。)。さらに便利なのは留守番機能で、仕事の邪魔をされずに済むし、取次も不要になった。こちらの意思で放置もできる。

「使えればいい」という意見もある。使うというのは主体的な意思を持って何かをさせるということだが、例えばゲームは個人が主体的な意思を持ってデバイスを使っていると言えるのだろうか、むしろゲーム提供者の意思によってデバイスを使わされている図式が見え隠れするのだ。

もちろんスマホなどのデバイスには正しい使い方などない。しかし、デバイスによる接続は人間関係を代替しないこと、また、あたかも人間関係が成立するかのように振る舞う輩もいることを忘れないようにしたい。

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