資源の有効利用という考え方は、それが有限なものである以上、人類が永続的に生きる上で極めて大事な考え方である。
有効利用している状態とは、天然資源や人間の労働力に至る多様な資源の利用量に対して得られる効用がより大きいほうが、より有効利用していると考えるのが一般的だ。この場合の効用とは、機械の出力であるとか、稼働時間など、画一的に比較測定可能なものから、人間の満足感といった主観的な感覚に基づくものまであるが、あくまで相対的概念である。
お金について同様の考え方を適用したものが、資本効率と言う考え方であり、投資額に対してより大きなリターンがあるほうが資本効率がよいと考えるのである。
この資本効率という考え方には一つのトリックがある。
例えば、石油1リットルを使って機械を動かして得られる生産力と、同じだけの生産力を得るために1時間の労働力に頼ることと、どちらが効率的なのかという問題を解決するために、石油1リットルが100円で、時間賃金が1000円であれば、石油を使うほうが資本効率が10倍よいと考える。
仮に半分の石油消費量で同じ生産力を得られれば、(石油価格が変わらなければ)さらに資本効率は倍増することになる。
では、上記の「価格」を前提に、(1)石油10L+労働力2時間、(2)石油20L+労働力1時間、という二つの同一生産力をもつ工程があったとすると、どちらが資本効率がよいだろうか。
(1)は3000円、(2)も3000円であるから、生産力が同じであれば資本効率は同じである。
しかし、(2)は天然資源の枯渇と失業という問題を内包しているし、(1)も人間の労働価値がいつまでたっても上がっていかないという問題がある。
つまり資本効率という考え方は、一方で資源の有効活用を促す効果があるが、他方で論理に内包されない問題を却って大きくする可能性を持っている。買物で使われるレジ袋に置き換えれば、一方は集客効果(売上増加)があるが、他方はゴミ問題を生み出している。店のオーナー(株主)が資本効率だけを求めていれば、レジ袋を無料ででも用意するだろうし、資本効率の論理(つまり株式投資家の論理)はそれを正当化しさえする。
そういった論理を用いるときは、論理が対象としている範囲の正の面だけでなく、範囲外の負の面をも考慮した上で用いなければ、「資源よりもお金のほうが大事」という誤った判断をしてしまうことになる。
「資本効率が・・・」という言い方は、「組織のために・・・」とか「これが正義なので・・・」という詭弁と同じリスクを持っている。