販売された民間マンションの建築にあたって、(1)建築士により耐震構造計算が偽装されたという。
いかなる理由であれ人の命にかかわる設計文書の偽装は糾弾されるべきだが、他方、(2)設計書の検査機関がきちんと検査をしていなかったのではないか、あるいは(3)建築士に対して施主から「経済設計」をするよう圧力がかけられた、(4)販売業者は設計に問題があることを知っていた、(5)施工業者がコンクリートなど設計よりも品質を落としていた・・・などの問題が浮上しており、いずれも事実関係をきちんと明らかにしていかねばなるまい。
いろいろな問題の捉え方はあるかもしれないが、いわゆる「誰が悪い」という犯人探しや、責任転嫁などに終始すれば、この事件から教訓は得られないだろう。また、事件の糾明前に補償問題を議論することは、本末転倒である。
購入した消費者から見れば、上記の(1)から(5)の問題は専門的過ぎて素人にはわからない問題であるところがポイントだ。
こういった「わからない」消費者をどうやって保護するかという観点で捉えなければ、結局は同じ事件が起こることになるし、わからないままでは信用経済は成り立たないので、その信用を担保する仕組みが必要なのだ。
その仕組みには二つの観点がある。
そのひとつは、(a)消費者が購入するマンションが安全に作られ販売される仕組みであり、もうひとつは、(b)前者の存在を前提とする、物件や取引上の瑕疵を担保する仕組みである。
いくら消費者保護といっても(a)なくしては(b)はビジネスとして成り立たない。今回は仕組みができる前に問題が先に露呈してしまったので例外的扱いがあるかもしれないが、原則はそうでなければ、補償を得て不良マンションを転々とする消費者が発生してもおかしくはない。また(a)が科学的にできればリスクの金額換算が可能なので、(b)は保険ビジネスとして成立しえる。もちろん保険会社は(a)を評価する専門家であるから、保険ビジネスが成り立たないとすれば、それは(a)の仕組みがかなり不安定であることを意味している。
(a)は、第一義として販売業者に全責任を負わせるべきである。家電製品で事故が起こったときに、仕入部品に問題があったようなケースでも、対消費者では安全な部品を仕入れなかった家電メーカーに責任があることと同じ理屈である。家電メーカーは仕入れ部品を検品し事故がないように図る義務があるだけでなく、発注先が違法材料を用いていないか、環境対策をきちんととっているかなども担保させつつ、何か事故があれば即座に消費者に対する責任を果たす。もちろん家電メーカーと部品メーカーとの間で、その後の責任問題は議論されることになるが、消費者から見ればそこは見えなくてもよい話である。
しかし、販売業者は建築について素人であることもある。そのため、設計や施工の品質保証の仕組みがあるのだが、今回はこれが機能していなかった(設計品質を保証する業者もきちんとした検査を行っていないとされている)嫌疑もある。それ自体は事実であれば糾弾されるべきである。
しかし、保証業者が信用できるかどうかはやはり販売会社が責任を持たなければならない。そのため販売会社側に保証業者の信用力について判断する基本情報が提供される仕組みがあったのかどうか、保証業者の信頼性を担保する仕組みが機能していたのかどうか、そこにもメスを入れなくてはならないだろう。
企業の不正について経営者が「私は知らなかった」と言えなくなった(知らないこと自体が、善管注意義務の懈怠(監視行為の過失責任)を問われる)ように、販売業者が「不正をしらなかった」「建築士にだまされた」と言えないような制度の構造を再設計すべきなのだ。そうしないと、不信のスパイラルが拡大し、検査や調査といった本質でない部分で社会的コストがどんどん大きくなり、本来の責任が希薄化されていけばいくほど、ますます不正が奥のほうに隠れていき、これがさらに不信を招き・・・いくら心配しても誰も何も信用できないノイローゼのような社会が到来することになるという構造的問題を内包している。
確かに検査機関の任務懈怠そのものは糾弾されてしかるべきだが、こと責任論となるとその機関を選択したほうにも責任がなければ、結果的には「見つからなければ、見つけないやつが悪い」という論理を認めることにはならないか。
それは、「連続殺人事件は警察が犯人を逮捕していれば起こらなかった」「そんなことはマニュアルに書いていない」「指示されていないのでやらなかった」「学校で習っていないから分かりません」・・・同じ論理ではないのか。