情報「化」という言葉の意味するところは様々だが、その一つに何でも記録するということも含まれるだろう。
ネットワークへのログインの記録などは情報セキュリティの第一歩のようなものだが、日常生活の中でも様々なところで我々の行動が記録されている。
街中で至るところに見られる監視カメラなどは犯罪防止の大義の下にそれがない場所を探すことが難しくなってきている(尤も最近のカメラは外見が小さくおしゃれになって、一見してカメラとはわからないようになっているので、監視されていることすら気付かないこともある。)。こっちは悪いことをしているわけではないので、特段カメラに記録されても悪い気はしないが、一昔前だったら「お前、夕べ飲みに言ったな・・・」とおせっかいなことを言われるネタにはなるかもしれない。
そのほか、
・鉄道に乗車するときのICカードによる改札記録
・クレジットカードの使用記録
・ハイウェイでのETC
などは経済活動の記録だが、これらは「お金」という価値が記録することによって担保されているために、記録せざるを得ない。
データは収集コストが結構馬鹿にならないが、一旦集めたデータは目的以外に使うことで高い生産性レバレッジを示す。したがって、データ収集には収集される側の許諾と、集めた側の管理義務が課されることになるのだが、一方的に集められているデータも多い。
ETCの記録などは、高速道路の平均移動スピードを統計的に検証して渋滞の緩和などに役立つかもしれないが、一方で統計的に「異常値」を抽出すれば、スピード違反の証拠にさえなる。
そのうち、料金所を出るときに、「平均時速が○○kmを超過したので、スピード違反です。ETCのクレジット機能で罰金を払いますか?Yes No」というメッセージがカーナビに表示されるような時代があるかもしれない。Yesを押さなければゲートが開かないのだろうか・・・。
日本社会は「恥の文化」とベネディクトが言う前から、日本社会は他人がどう見ているかということを非常に気にする社会であった(そういう教育もしてきた)。そういった牽制が効かなくなってきている今日では監視装置が我々を監視しているという社会になってきている。だから監視されなければいいという発想も必然的に生まれてくるかもしれない。但し、「恥の文化」は他人がどう見ているかは常に自分の心の中の判断の裏返しであり自分でコントロールできたのだが、監視装置による監視の背面には常に権力が存在していることを念頭に置かなければならない。