「世間体」の構造—-社会心理史への試み

井上忠司(著) 講談社学術文庫 (2007/12/10)

1977年刊行の再出版。世間に対して恥ずかしいとか、世間を憚るとか、「世間」
という言葉を使った表現が日本独特の思考を表象しているという問題意識の元に、「社会心理史」という側面からアプローチした書。

かつてR・ベネディクトが「菊と刀」で、日本人は「恥の文化」、欧米人は「罪の文化」
のなかで生きていると言い放ったことを土台にしつつそれへの反論を加えながら持論を展開している。

まず、自分が社会的に所属する集団(例えば、会社や学校など)を所属手段、
自分の態度や行動の拠り所とする集団を準拠集団と概念規定する。所属集団は事実として客観的に捉えることができるが、
準拠集団は自分がそう感じている、思っている、その集団に何らかの帰属意識を持っている、(あるいは、
その集団を勝手に定義している仲間意識のようなものといってよいかもしれない)というところから発しているので、自分でも気付きにくい。
世間とは、まず準拠集団である。

これに「遠慮」という概念を掛け合わせてみると、全く遠慮することを考えなくてよい集団として、たとえば外国旅行先で会う人と、
家族集団を考えてみる。外国に行けば自分は全く「ヨソモノ」であり、旅の恥は掻き捨てという言葉もあるくらい無遠慮に振舞う人もいる。一方、
家族は「甘えの構造」があり別の意味で無遠慮である「ミウチ」集団だ。この「ミウチ」と「ヨソモノ」との間に「世間」を捉える。

ここでベネディクトの罪と恥の二項対立の一項で捉え、自立的な罪の意識で考えるのが欧米で、他律的な恥の意識で考えるのが日本である、
とする考え方に反論が出る。

著者は、準拠集団-所属集団への帰属感という側面と、(他のメンバーとの比較優劣による)劣位感-
(集団規範に同調しているかどうかによる善悪)逸脱感という(自分の思う他人の視線という)側面とを掛け合わせて、
四象限で恥と罪とを意識の主観的な作用面から捉えようとする。

恥の意識

所属集団内部における自我理想に対する現実認知との比較によって感じる劣位感(例えば、組織で一定の役割を果たしていないとか、
学校の成績が悪いといったもの)を、「公恥」とする。所属集団から逸脱して孤立する感覚である。

対して、あくまで準拠集団における自分の理想に基づく「かくありたい自分」
と現実との自分との比較で感じる劣位間を他人の目を介して感じる「私恥」。これは「年相応でありたい」とか「地域住民として」など、
集団を明確に規定できない場合なかで、自分が集団を定義して、その中で感じているギャップである。

通常、所属集団と準拠集団が同じであれば、公恥と私恥とは重なることになる。しかし、例えば、
(かくあるべしというプロフェッショナル意識を持った)医者という準拠集団で、
ある医者が所属する病院の患者への対応方針と異なる考えを持つような場合に、準拠集団と所属集団との間に生じるズレによって感ずる恥を
「羞恥」と呼ぶ。「プロとして恥ずかしい」「親として恥ずかしい」という言葉に表れる。

罪の意識

普遍的規準の内面化に伴い感じる罪、つまり「何か悪いことをしたようなすまないという気持ち」を罪とするが、
所属集団からの逸脱感を感じるときの罪を個別的罪、(超自我による規範的機能に基づく)準拠集団からの逸脱感を普遍的罪と呼ぶ。やはり、
準拠集団と所属集団との間の認知志向のズレでも「羞恥」が発生する。

著者の罪の意識の説明はやや不足感がある。思うに、日本の社会は著者の言うように「世間に対して恥ずかしくない行動と採る」
ことが求められている。更に踏み込めば、「恥を感じないことを罪とする」思考傾向があることは確かだ。
「そんなことをして世間に対して恥ずかしくないのか」というセリフは、子供の頃から何度も言われ続けて、「世間」
という幻覚を意識せざるを得ない社会が形成されている。そこは唯一絶対神を持たない日本社会で「善」
の規範がどこにあるのかという疑問に繋がっていくはずだ。何がよいことなのか「世間」を意識して考える、世間を考えることが「善」を捉える
「行為」であって、それなりに哲学的な教育を日本人は形成してきたのではないかとも思う。

ただし、世間とは準拠集団であるだけに、その明確な形での合意形成は難しい。コンセンサスがない場では、
自分は世間の呪縛から解放されようとしつつ、他人を「世間」の規範で見ようとするようになると、世の中がギクシャクしていくのではないか。

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