責任という虚構

小坂井 敏晶(著)東京大学出版会(2008/08)
本書は、責任(責めに任ずる)という考えを、法的な考えではなく社会現象として捉えている。法的な責任概念は、自由な人間の自由意思に基づく行為がある結果を招いたとき、その行為により結果が予見できたか、回避できなかったかどうかによって判断がなされる。しかし、著者の捉えかたは刑罰という「責任のとらせかた」をなぜ社会が求めるかという観点からの著述である。その考えは「責任は因果律に基づかない社会的虚構」という表現に集約されている。
まず、「自由な意思」という考え方を否定する。ナチスのホロコーストや日本の死刑執行が行われる例(その描写には吐き気を催すかもしれない。)をとりあげ、そういった行為自体が全体として執り行なわれていても、個々の人々は全体が見えないように仕組が作り上げられていることを長々と説明する。例えば、死刑の執行に際しては執行官が押すボタンのどの回路が死刑台の床を作動させるスイッチであるかということはコンピュータにより隠蔽されランダムに選択されることで、執行官の行為との直接的な因果関係を希薄化するように仕組まれている。例えば、死刑執行後の遺体は執行官は目にせず、受刑者によって処理される。死刑執行により人が死ぬという「苦痛」を和らげる仕組が微細に作られていて、組織的に人の命をとる(個人の)行為と結果とが可能な限り距離を置くように作られているという。ナチスのホロコーストも、ヒトラー単独でそれを実行できたわけではない。ユダヤ人を見つけ、集め、閉じ込め、・・・・といった一連の行為が全体として成立して初めてホロコーストが実現されるのであり、個々の人々はホロコーストという行為を意識しないままに行われてしまったという。
自由な意思を認めず各人が抱く意図を超えて世界は展開されるという著者の思想は、実は社会現象から人間の意思を差し引いてしまえば、残りは魂のない虚構になってしまうのは当然である。つまり責任を社会現象と捉える前提自体が、個人を否定し虚構を生み出すという結果を導いているのである。
むしろ自分の見ているものを虚構とせず、個々の意思と全体の様相とが全く異なってしまうという実像として社会を捉えることが必要であり、著者のいう「虚構」を実像化する人間の歴史の努力と、ホロコーストや戦争、犯罪といった「意図しない実像」が現れてしまう社会現象としてみなければ、人間の営みを文字通り虚しいものにしてしまわないのか。

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