コンピュータリテラシ

「XXXXがあれば(を買えば)簡単にYYYYができる(効用を得る)ようになる」

これは全ての商業に通じる宣伝文句で、ビジネスのビジネスたる所以は相手に対して利便性などの効用を提供して対価を得るところにあるので、このようなメッセージが出されるのは至極当然のこととして受け止められる。

しかし、その一方では、たいていの人はそれらのメッセージを半信半疑で冷静に受け止めているものだ。それは、自分の期待する成果を得られるものなのか、本当にそれが自分が得たい成果なのか(実は単に一時的に惹かれているだけではないか)を改めて疑ってみる、またそれだけのお金を出す価値があるのか、などを考えるからだ。

宣伝文句と消費者の判断力が旨くバランスしていればよいが、そうでない場合は商品に対する不満や、安物買いの銭失い、ひどい場合には事故を招いたりすることもあるので、法律がいろいろと規制をかけている。また、「賢い消費者」になることが必要だと説かれる。

1990年代以降のコンピュータが大衆化した世界では、かつての商品の提供者と利用者との関係ではない関係が出てきている。これは言い換えればソフトウェア駆動型のデバイスがPCや携帯電話、スマートフォンという媒体が普及した社会である。

PCが普及し始めた当初よく聞かれたのが、
消費者「パソコンを買ったら色々できると聞いたけど、どうやって使うのかわからない」
提供者「ソフトウェアを入れなければパソコンは使えません」
消費者「何のソフトを買えばいいの?」
提供者「そもそも何がしたいの?」
消費者「何ができるの?」
提供者「色々出来ますよ」
という堂々巡り型の話。

例えば、日曜大工用品などのように、金槌(道具)→釘を打つ(手段)→棚を作る(目標)→本を整理したい(目的)という関係は消費者側がよく分かっている。言うまでもなく、上記の例であれば、本を整理したいという目的から段階的に導かれた行為が金槌で釘を打つということであり、だから金槌を購入したいという結論に至っている。

しかし、日曜大工用品のように道具と機能と目標との関係が明確に繋がっていれば起こりえない問題が、コンピュータの場合は起こりえる。

それは、コンピュータがもつ潜在的能力がとても高いからだ。そして悲しいことに、所詮、人間が作ったソフトウェアに依る命令で動いているにすぎないコンピュータを、演算能力をあたかも万能であるかのように誤解している人が多い。この誤解は、それなりにソフトウェアに習熟したり、プログラミングやマクロ(簡易言語)を覚えて自分にあったソフトを作るなどの努力が必要だということを学べばいずれ解ける。しかし、その普及の速さから必要な教育を得ていない人はたくさんいるし、教育のレベルも千差万別なことから、様々な社会問題を起こしている。

教育で最も大事なことは、自分の意思を持ってコンピュータが使えるようになることである。その裏面として必要なことは、自分がコンピュータを使っている時に他人の意思によって縛られていないかどうかを常に意識できるようにすることである。そして意思が常に善意であるとは限らないという感覚は、コンピュータ利用時に限らず現代に生きる上で必要なことだが、ソフトウェアという意思を表現したものを使っているときは、こと相手が見えないだけに、他人の意思を考えることが強く要求される。

自分の意思で使っている限りは、それは便利な道具である。他人の意思で(気づかずに)使っている(つもりになっている)のは、自縛である。

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