哲学的思考—-フッサール現象学の核心

西研(著)ちくま学芸文庫(2005年)

分厚い文庫で読み疲れたが、いままで読んだ現象学関連の本の中で最も砕けて記載されており読みやすかった。
世界の共通理解の根源を求めようとするフッサールの考えは、何でも「科学的」
に説明しようとする現代に対する痛烈な批判とも受け止めることができる。

他の哲学はどうなのか知らないが、「世の中とはこうである」ということではなく「世の中はこうやって捉えられるのではないか、
そういった人間の思考の動きを共通なものとして捉えよう」とするところに、
人間の共通理解を求めて豊かな社会を築こうという意欲のようなものを感じる。
それは著者自身がフッサールを現象学的に捉えているからかもしれない。

かつて愚息が幼稚園児だった頃、「自分は丸い地球の上にいるのに、どうして宇宙の中に地球があるのか。」
という質問をされたことがあった。最初は、何を訳の分からんことを言っているのかと思ったが、
これは現象学で言うものの捉え方の問題であると考えれば、実に面白い問いかけである。

自分中心にものを見ると、自分がいて、自分が乗っている地球がある。これは自分のいるところが、いまここ-東京-日本-
地球というように拡大された「場所」だと考えればさほど難しくないし、そういうものだという納得ができる。しかし、
宇宙というものは体験が難しい。愚息はおそらく地球という唯一世界があり、その地球のどこかに「宇宙」という場所があると考え、
その宇宙の中に地球がどうやって存在できるのかと考えたのかもしれない。

現象学では、「宇宙という存在」がどのようにして納得されているのかということを問う。
自分は宇宙の存在はいつの間にか所与として大人になってしまったが、宇宙が存在するならば存在をどうやって確認するのか、
存在を確認できたとしてそれを外側から見ている自分は、宇宙の外側にいることになるのかなど考えると、
愚息の現象学的問いかけに答えるのはなかなか難しい。

さて、次はそろそろフッサールの「危機」に挑んでみようか。

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