逆説の日本史12・近世暁光編

井沢元彦(著)小学館文庫(2008年)
関ヶ原前後の家康がテーマである。
戦国が終わり江戸幕府が260年も続いた家康のしたたかな戦略に対する著者なりの視点が相変わらず面白い。


家康は、将軍家に権力を集中させる一方で対抗勢力の権力の分散を常に意図していた。
徳川御三家は、尾張大納言、紀州大納言、だが、水戸は中納言であるのは何故か。将軍後継が徳川本家から途絶えたときに、御三家から後継者を出すことを意図したとされているが、中納言では将軍にはなれない。
水戸は天下の副将軍として参勤交代を免除されただけでなく、家康が水戸家に密命を遺したからだとする。
家康は、禁中並公家諸法度を制定して京都を統制していたが、いずれ反対勢力が出てきて幕府と宮中とが一戦交えることを想定し、水戸家に対しては将軍の地位に付かずに最後は宮中側について徳川家の存続を図ることを考えていたという。
しかも、将軍正室は公家から出てきているものの、正室から生まれた子は将軍になれていない点に着目し、それは公家が外戚となって藤原氏のように実権を持つことを回避したためだという。
しかし、幕末になり、慶喜が将軍になったことで、水戸家からは将軍を出さないこと、公家との関係を持たせないことなどの家康のリスク対策は、外されることとなり、明治維新を迎えてしまったというのである。
また、本願寺が東と西とに分かれているのも、もともとは一向一揆で命を落としそうになった家康の危機意識が、本願寺の内部抗争に着目させて、東西を対立させる構造を作ることで、権力への対峙ではなく内向きのエネルギーを醸成させたという。
檀家制度による寄進で、寺院は黙っていても生活が保障される事で骨抜きにされ、日本人の宗教意識を海外のものとはまったく違うものにしてしまい、いわば信仰のために死を選ぶようなことはしなくなったことにより、キリスト教とユダヤ教の対立により戦争が起こるようなことは日本ではなくなった点は、家康以来の徳川幕府の功績だとする。

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