金印偽造事件



金印といえば、小学生の教科書にも載っているくらいよく知られているのが、江戸時代に志賀島で甚兵衛という百姓が畑を作っている時に掘り起こしたとされる「漢委奴國王」の金印が有名である。これは、後漢書に記述のある光武帝が与えたとされるものに同定されている。
しかし、筆者はこの金印が当時の福岡で藩学を始めていた亀井南冥を首謀者として造られたものであるという論理を展開する。
歴史に偽造はつきものだが、実際の金を大量に溶解して印を偽造するとなると、それなりのコストもかかるだろうが、そうまでして造らねばならない動機がもっとも重要となる。著者はそれを次のように推定する。

  • 漢や晋の古印がブームになっていた時代背景
  • 二つの藩校が同時開校するという全国でも稀な状況で亀井南冥がその片方の館長となる
  • 亀井南冥は学者としての知名度を上げる何らかの手段(実績)が必要だった

その他、金印発見時の関係者と亀井南冥を巡る周辺の人物関係があまりにも近い人によって構成されていること、金印の発見された現場に行って調べたような記録が残されていないこと、金印を模写した亀井南冥による記録の蛇鈕(だちゅう:印の上についている飾りのような部分)の絵が、実物の金印よりも丁寧に描かれていること、などの事実関係を掘り起こして、偽造説を裏付けている。
このような説を述べる背景には、考古学に科学の目をもっと当てるべきであるとの著者の主張がある。X線照射による成分解析をすれば、何時の時代に金印が造られたものであるのか、同時代のものと比較することによってほぼわかるという。そういった研究を経ずに、一旦、国宝として指定された金印が「権威」となって日本の歴史が記述されていることは、確かに見直されるべきことだろう。

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