適法だが倫理的におかしいって?

倫理とはそもそも何か。
個人の自己の内面に、罪の意識、恥の意識を求めると言うことなのだろうと解釈している。
それが組織行動であれば、企業倫理ということになる。通常、反倫理的行為は法律で罰則が整備されていると考えられるが、全てのことについて法律で手当てできるわけではないし、世の中、善人で成り立っているという前提(論理的帰結)があるので、反倫理的行為に対して法律が整備されていないことは十分に想定される。
倫理はやっていることが、自分で恥ずかしいと思うか、罪の意識があるかどうかがポイントなので、他人から見て恥ずべき行為でも当人が平気であれば、そこに軋轢が生ずることになる。
個人や企業が倫理観を自己に課し、それに基づいて行動することは、社会が成り立つ上で肝要なことである。
しかしながら、倫理観は人によって異なるものであるとすれば、まして共通の倫理観がなくなりつつあることを嘆くご時勢であればこそ、自分の倫理観で他人を「裁く」ことはできない。まして罪刑法定主義を与件とする社会では「法的に罰する」ことなど不可能である。逆の裁かれる立場であれば、勝手に他人の倫理観を自分に押し付けられることになり、そういう世の中はまっぴら御免蒙りたいところである。
とはいえ一方で、倫理的におかしな行為であっても、法定されていないことを理由に法律に引っ掛かる者だけが罰せされるのも腑に落ちないのだが、こと「犯罪」となると上記の理由から慎重にならざるを得ない。
但し、社会的制裁は別である。本来、具体的な形のない倫理について「違反」があれば、それは社会的に制裁されるということになるのだろう。それは明らかに差別にならないという前提の下で程度にもよるが「仕方がない」と受け入れざるを得ないかもしれない。
「倫理的である」ということは、言い換えれば倫理とは何かと言うことを常に自問し、自己の行為を反省しつづけることである。それを他者に期待し表明することは同じ価値観を共有しようとする行為であるし、お互いを尊重する社会を形成する上では大切なことである。だが、自分の倫理観に基づく行動を法律以外の形で他人も同じようにしろと無理強いするのは傲慢ではないだろうか。その行き着く先は宗教弾圧や、民族虐殺などである。
武士の掟とか、戦前の教育勅語などのような共通の社会基盤がある中で、倫理観について議論することはさほど難しくないかもしれないが、人それぞれの価値観(倫理観を含む)を尊重する自由社会で「他律」よりも「自律」が求められる中で、こと経済事件のような場合には、何が倫理的でないのかどうか、いつも議論になる。
そこで提案。
人は場に応じて自分の倫理観を表明し行動することができるが、企業も広く倫理行動規範を開示したらどうか(※但し、「法令を遵守します」は倫理規範ではなく「あたりまえの義務」なので、あえて付言しておきたい・・・統計は取っていないがこれを堂々と公言している企業は意外に多いのでは。)。
そのため最低限の制度的担保として「企業が持っている倫理観情報の開示」を全ての企業に義務付ける。しかし、倫理とは何かを含めてどのような倫理情報を開示すべきかは、「市場原理に委ねる」つまり経営者と企業ステークホルダーの判断に任せることがよかろう。
そうすれば、経済社会に自ずと経済行為の倫理共通基盤のようなものが形成されることが期待できるのではないか。
また、投資家には、この倫理行動規範を投資情報の一つとして投資活動をしてほしい。
中途半端な倫理行動規範しか持たない企業は、それなりに投資家の倫理に反するリスクがあるということである。投資家もそれを分かった上で投資するわけだから、例えば企業の反倫理的行為から生ずる投資リスクの顕在化に関しては「自己責任」と考えるしかない。
そして企業は自ら表明した倫理基準に対して違反した場合には、社会的制裁とともに法的にも裁かれるということにすればよいのではないか。さらには投資家においても、そのような中途半端な倫理規範しか持たないような企業に投資して、結果的に企業が反倫理的行為をした場合に、反倫理的行為に「加担」したものとして経済的に裁かれるのである。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

CAPTCHA


計算式を埋めてください * Time limit is exhausted. Please reload CAPTCHA.