GMいよいよか?

4月にクライスラーが破産法の適用を受けて次はいよいよGMに。
米国の破産法は会社を倒産させる法律ではなくあくまでも事業継続を前提とした経営体の再構築をもくろむ法律であるため、今後どのような形でGMが残っていくのか気になるところではある。
とはいえ、会社のリストラなどでいつも考えるのは、「最後に何を残すのだろうか」ということだ。よく、資本の論理で労働者を見捨てていいのかといったマルクス主義的見地や、クルマはアメリカの文化だといったナショナリズム的見地が出されるところだが、いずれも的外れな議論である。


資本の論理が見えたときには既に会社は危ない状況に入ってきているので、いまさら「労働者」の立場でそれを言ってもと思うこともある。政府を含めたあらゆる組織は入る資金よりも出る資金が大きくなったときに、存在意義を問われることになる。政府であれば議会を通じて、また民間会社であれば株式市場や金融機関を通じて、それなりの圧力がかけられる。尤も政府への圧力は革命でも起こらない限りは、象に平手打ちを食わせる程度のものにしかならないようだが。
米国工場で生産されたホンダやトヨタのクルマは米国では「国産車」なのかそれとも「外車」なのか?既にプリウスなどのハイブリッドカーが30km/L以上を実現しているときに、オバマ政権の新CAFE燃費基準は、乗用車は現行の27.5MPG(約11.7km/リットル)を39MPG(約16.6km/リットル)の燃費を目標にしようとしなければならないような状況で、米国の自動車会社に残すべきものは何なのか。
アメリカ滞在中にGMのクルマはよく借りていたが、あるスピードを超えると窓から空気がシュルシュルと漏れる音がする、ウィンカーは手動で戻さねばならない、窓ガラスが防水ゴムにくっついてパワーウィンドウが開かないなど、細かいトラブルが色々あった。それなりにアメリカの大らかさを体験したつもりだが。
お金があっても立派な工場があっても、勤勉な労働者がいても、最後に残すもの「会社の芯」がなくなってしまったときに、会社は崩壊を始めているのではないのだろうか。組織基盤の空洞化の始まりをどうやって見極めるか、これは経営者や働いている人のふとした問題意識に敏感になるしか方法がないのか。例えば、京都議定書を批准しなかった頃に既に崩壊の途上にあったということなのではないか。
世界最初に自動車を作ったアメリカの誇りはぜひ大事にして欲しい。そしてその誇りが「過去の栄光」ではなく現在も「世界一の車」を作っているという誇りにまで昇華して欲しい。破産法適用はそのきっかけとなってくれることを期待している。

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