株式会社に社会的責任はあるか

奥村宏(著)岩波書店(2006年)

CSR(企業の社会的責任)という言葉がもてはやされているが、実態はよく分からない。著者は、CSRという言葉に含まれるCorporateを「株式会社」であるという前提に立ち、CSRは株式会社の危機を表していると主張する。

その論旨はこうだ。

株式会社は多数の有限責任株主により構成される。有限責任とは、企業活動が多大な損害を出しても株主の責任は出資の額の範囲に限定される。つまり、株主は会社の不法行為について責任を負わず、株主有限責任とは株主無責任を意味する。

また、株式会社(法人)自体は意思を持っていないので不法行為が成立する条件の一つである「意思」を立証できず、会社自体の行為について責任を問うことは法概念上は難しい。

そうなると、責任の主体は株主総会によって業務執行を委託された取締役会とこれによって選ばれた代表者(経営者)ということになるが、取締役や経営者は善管注意義務を払って業務を行なっている限り、「知らなかった」ことの責任を問うことは難しいし、「会社のため」に行なったことが「世間のため」でなかったとしても、経営者個人としての責任は問えない。まして経営者の責任が問えるとすれば、経営者の命に忠実に従った結果として、従業員も責任を問われるという論理構成になる(大統領の命令に従って核兵器の発射ボタンを押す軍人の「責任」を考えればよい。)。

仮に法人を罰したとしても、法人組織は営業譲渡などにより売買の対象になるため、登記と名前を変えて存続しうる。つまり法人は罰金等を払うことはできても存続するし、仮に責任を問うとしてもそれ自体がどういう結果を期待するかによっては、意味のないことになる。仮に会社が罰せられたとしてもそれは行政罰であり刑事罰ではない。

このように株式会社の社会的責任を問おうとすると、現代の株式会社制度が持っている矛盾点が明らかになる。それを覆い隠そうとするのがCSRという聞こえのよい言葉であり、「CSRを叫ばざるを得ないことが株式会社の危機を表しており、・・・本来は社会的責任の主体たり得ないはずの株式会社に社会的責任があるといわざるを得ない」状況なのだ。

他方、学術芸術活動への会社による寄付行為が経営者の判断によってなされることがあるが、これは一見よいことをしているようであるが、実は必ずしもそうではない。政治献金とて同じ寄付行為であるが本来は政治的意思表示は配当金によって分配されたところから個人が行使するもので、経営者の判断によるべきところではない。芸術活動とて同じであるとする。

責任という言葉を法律的観点からきちんと解釈するとそういう論理になるのだろう。したがって著者は、社会的に責任があるとして糾弾されている株式会社は、社会的責任ではなく単に違法行為を犯している(欠陥製品のリコールをしない、点検結果で判明した不備を報告しない、など)に過ぎないから、安易に社会的責任云々を言うべきではない。

ただし著者の議論には次のような観点が欠けている。

企業活動が、経済のみならず環境や社会に与える影響が大きくなってきていることは誰もが否定し得ない事実である。企業が「適法な」活動を行なっている限りにおいて、著者の言う「責任」は全うできているのか。つまり責任の主体が誰かという議論だけでなく、責任を負うべき活動とは何なのかという議論である。

筆者の立場にあれば、それは致し方ない。筆者の議論であえて法律論的解釈を明確にすることが、上記の観点をより浮き彫りにするからである。そこには、CSRを「綺麗ごと」にさせたくない「株式会社研究家」たる筆者の思いを感じ取れる。

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