電話の記憶

物心ついたころは自宅に電話などなかった。昭和40年代の前半である。
近所の雑貨店に黒電話があって、その電話を借りるか、もう少し先の郵便局の公衆電話を使うしかないのである。
つまり、電話とは貴重な通信手段の一つだった。

4歳くらいの時に、父親の社宅アパートに移転した。
そのアパート群は全部で6棟ある中で、最も新しいものだったが、三か所の入り口から両側二世帯を三階建てで構成しており、18世帯も入っていたにしてはかなり小さかった。

ところが、私の住んでいた部屋はピンクの公衆電話がつけてあった。玄関わきの壁に埋め込んであり、外からも中からも電話が使えるようになっていた。その一台限りの電話で、6棟中3棟をカバーしていたのだ。

玄関わきには呼出釦が付いていて、第6棟の人は電話がかかるとそのボタンで呼び出すと、各世帯の台所でブザーが鳴る仕組みだったが、隣の5号棟、4号棟にはそれが付いておらず、電話がかかると大きな声でベランダに向かって母親が「呼び出し」をしていた。おそらくその部屋は電話の取次ぎを条件にした部屋なので人気がなかったのだろう。

深夜・早朝を問わず電話は鳴った。当然だが、緊急性の高い電話なので取り次ぐ側も真剣になる。私も子供ながら時折電話の取次ぎをした。また、長距離電話は100番通話といって、電話局に取り次いでもらって後から料金を別建てで払っていた。ピンク電話の後ろに鍵が付いていて、そのカギを倒すと、10円玉を入れなくても通話ができた。それは交換を通じて料金を聴いたうえで払うからそういう仕組みになっていたのだ。電話横には電話の使用記録簿があって、呼び出しや料金を記載していた。

ある日、昼寝をしていたら、職人のおじさんが部屋に入ってきてベランダの側のコンクリートの壁に穴をあけていった。最初は何のことだがわからなかったが、後で聞いてみると電話回線を引くための穴だったようだ。各世帯でそれぞれに電話を設置していったようで、小学校6年生のときにそのアパートから引っ越すときにはほぼすべての世帯に電話は引かれていたようだ。

新しく越した家には初めから電話回線が引いてあった。しかしその電話は玄関にあった。サザエさんの漫画を見ても電話がなぜか玄関にある。当時はまだぜいたく品で、お客さんから見えるところに置いてある必要があった。自宅の電話は黒電話ではなくクリーム色だった。

自宅の電話をお客さんが使うと、10円玉を置いておくというのがマナーだったようだ。私自身も学校の名札の中に10円玉を入れてあったのは緊急用だ。

少し時間を戻して、父親の実家に行くとレバーのついた電話機があった。磁石式電話という仕組みで、レバーを回転させて発電させ、交換を呼び出す仕組みだ。その電話とは別にもう一台の黒電話があった。農家だったので、農協が用意した有線電話と電電公社の電話と二つあったようだ。農協の有線電話は、朝・昼・夕と有線放送が流れ、農事に限らず地域の弔事や学校行事などの連絡にも使われていた。農協の電話は、友人宅でも使っていて、釣りの約束をしたときに何か連絡を取る必要があって、農協の交換に電話をかけて、呼び出しをしてもらった記憶が残っている。今考えると、地域の通信のかなめは農協が担っていたのかもしれない。

小学校4年生の時、修学旅行で山口市仁保のKDD衛星通信所の見学をした。当時、太平洋との通信は茨城、インド洋側の通信は山口で行っていたようだ。野球の塁間の距離とちょうど同じ直径といわれるパラボラアンテナを間近に見て圧倒されたが、今思えばそれだけ電波が弱かったということなのだろう。

中学生になり時折、電話を使うことはたまにある程度だった。

そのうちシンガポールに転居した。シンガポールは国が狭いため、国内の通信は基本料だけの支払いだった。公衆電話というのがなかったようで、町中に電話が設置してありそれを使えばよかったし、学校にも廊下に電話がつけてあったのは驚いた。

シンガポールから国際電話を使って日本に電話をしたことは一度もない。

高校生になるときに日本に帰国した。受験の時に祖父母の家に世話になり、ここでも農協の有線電話と電電公社の電話が併存していた。ここで初めて国際電話を使ってシンガポールにいる両親に電話をした。その頃は、国際電話は交換に依頼して繋いでもらう方式だったし、おそらく衛星(インテルサット)通信だったので、音声の遅延があった。

大学受験のその頃、テレホンカード電話というのが登場した。大学の合格通知を学校にするのに、テレホンカードを使って学校に電話したが、先生が不在でなかなか電話口に出てくれず、何分も待たされて千円あったカードの残高がほとんどなくなった覚えがある。長距離電話はとても高かった。

大学生になり上京した。ちょうど電電公社が民営化されてNTTになったタイミングと一緒だった。
小さな木造アパートの部屋を借りて電話を取り付けた。電話加入権は72千円もする高価なものだった。電話機は黒電話。たまに友人や親がかけてくる程度で自分からはあまり使わなかった。なにせ料金が高かった。

大学3年の時に今の職場でアルバイトを始めた。当時、流行りはじめたパソコン通信というものを職場で教わり、自宅にもモデムを取り付けニフティに加入した。2.4kbpsという今思えば恐ろしく遅い伝送速度だが、そんなものを使っている人などほとんどいなかったので、自分なりに先端的なことをやっているという気持ちがあった。実際は、夜間に囲碁のオンライン対局をしていた。

就職したころから、ちょうど、情報提供のいろいろなサービスが始まり、パソコンを用いた通信によって情報を得るという手法が始まった。まだインタネットはなかったが、NTTが唯一のポータルを持っているということは雑誌を読んで知っていた。また通称「グレ電」と呼ばれるグレーのISDN公衆電話が登場した。このアナログポートを使って高速道路を移動しながらサービスエリアで「いま何処に到着」という連絡をとる遊びをした。

サンフランシスコに研修で移った時も、ニフティに繋がっているコンピュサーブのアクセスポイントを使って日本の仲間とPATIOと呼ばれるCUGで情報交換をしていた。電子メールが全員に使えるようになっており、オクテルと呼ばれるボイスメッセージ伝送システムで各人が電話番号を持っているのには驚嘆した。日本では電子メールを使っている人は「英語ができる人」であり限られた人だったが、米国は情報先進国だったので、それを日本側にすぐにレポートした。

時を待たずしてに、漸く職場に電子メールが入った。

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