「日本人論」再考


日本人とはかくかくしかじかであるという日本人論は、明治以降、内外の人たちによって論じされてきた。中には古典にもなる著作もあるが、実は意外にもその数は少ないことに気が付く。
著者はこれら日本人論に共通する点を捉え、日本人論が出てくるときは社会の大きな動きの中で何らかのアイデンティティの不安が生じたときに、日本人としてのアイデンティティをポジティブ、ネガティブどちらかで捉えようとするときに、日本人論がもてはやされると見ている。
そこには、近代化が西欧化という流れを経てきている中での、近代化した国家で唯一とも言える非西欧国家がぶつかるアイデンティティの不安であり、他の国々も同様の不安を今後抱えることになる可能性があり、日本はその先行をしているに過ぎないとする。
本書の結論になっているのは、そういう歴史を経ている日本人論が大きく変化するのは、今後、アイデンティティの不安を持たない人たちが出現して、不安以外のテーマを扱う日本人論が出るときであるという。
サムライとゲイシャの後に入ってきた西欧化だが、さらにその後に生まれた日本文化が中心になる日本人論は「オタク文化」であるという。サムライ、ゲイシャはいずれも西欧的視点で西欧文化との比較論の中で描かれたものだ。それ自体が、西欧と対象化するかたちで日本のアイデンティティを捉えようとしていることから、「不安」は消えることがない。しかし、オタク(ゆくさきは、ひきこもりかもしれないが)は、他者から対象化した自己を捉えない。そこに新たな日本人論が生まれる可能性がある。

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