語りきれないこと 危機と傷みの哲学


東日本大震災からほぼ1年。
以来、ずっと自分の中で釈然としない何かを抱えたまま一周忌を迎える時に、本書に廻ったのは何かの縁だろう。そもそも鷲田清一は他にもいろいろ読んだことがあるので、好きな著者ということでもあるのだが。
エッセイのような語り口と流れるような綺麗な文章は相変わらずなので、ここでコメントすること自体がその品位を下げてしまうような嫌いがある。
一番印象に残ったのは、語るということをテーマにしたときに、原子力発電所の事故を取り上げて、専門家と一般人との間に対話が全く成立していない現実を嘆くところ。原発問題をコストとベネフィットで天秤にかけることで、責任という問題がすり抜けられてしまうという指摘は鋭いが、それ以上に、今の専門家は「特殊な素人」でしかありえなくなった時代であるという。科学者は自分の専門分野については語ることができても、それに関係する他の分野について言及することはあえて避けてしまうため、社会性が生まれない。本当に人間にとってどういう意味があるのかを語ることができない専門家を前にして、一般人は自分で判断せざるを得なくなっている。
重い病気にかかり、丁寧にその説明を受け、治療法もいくつかのプランが提示され、それぞれ治癒率が示され、「はい、あなたはどうしますか」と尋ねられる患者の辛苦と同じ状況が、原子力発電所の問題にある。
専門家の壁という点では、監査と不正の問題についても同様だろう。
語りきれないことを語ることに人は救いを得るのだが、同時に、一応「専門家」として仕事をしている自分に対して重い課題を課せられたような気がしてならない。

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