財政の健全化

事業仕分け関係のニュースが最近よくでてくる。政治として政策上の無駄の排除や重み付けは、政権の責任であり当然すべきことだ。自民党は自らの政策が利権構造を形成してしまい、それが壊せないまま足かせとなって自滅してしまった。小泉改革はその利権構造を、票田である特定郵便局の廃止などを織り込んだ郵政民営化をシンボルにして変えようとしたが、利権構造が駄目だとわかっていつつ利権構造のおこぼれで飯を食っていることに気がついた「浮動票」につぶされた。
民主党は新たな政策を織り込んでマニフェストというお題目を掲げ政権を取ったが、やはり財政難の折、自民党が強く主張していた財源問題に触れざるを得ず、増税に対する世論懐柔策として「事業仕分け」という劇場を演じている姿は、小泉劇場と何ら変わりはない。
「入るを図って出を制す」は組織体運営の基本中の基本で、国家であれ、家計であれ、公開企業であれ特殊法人であれ、NPO法人であっても、至極当然のことで、要は金は入る以上には使えないのである。きちんと議論すればいい。しかし議論が「いまの収支」に終始し、本来あるべき国富をどう形成し将来負担をどう減らしていくかというバランスシート(財政構造)に着目した議論が一向に聞かれないの、片手落ちであろう。
例えば、国債発行は将来の世代での負担だから、将来の生産増に伴う税収増によって解消されることが前提だが、そもそも少子高齢化社会を云々する議論はあるが、少子高齢化の結果として将来の生産性がどうやって増加するかという議論は、国債発行の議論でまったく聞かれない。たぶん学者などほんの一部の専門家が議論している中で、政治的にもみ消されているのだろう。国家財政は破綻しているとは、官僚は誰も言わないし、政治家も触れるはずがない。すくなくとも、最長期間の国債発行高の利払い・償還計画に見合った税収計画が必要で、八千万人程度の人口規模に向けての国家縮小に向けた財政規模の縮小議論を、経済成長という数字(GDP)の魔物と闘いながらしていかねばならない。
残念なことに、そういう議論は次の選挙の票には結び付かないのだった。さてどうなる。

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