Google書籍検索から和書が外される

世界中のあらゆるコンテンツをデジタルアーカイブにしようともくろむGoogleであるが、既存のコンテンツ業界とは折り合いが悪い。
このたび、日本の書籍が検索対象から外されてしまったのは実に残念である(とはいっても、デジタル化は裏では進んでいるものと期待しているが)。
著作権の保護とか文化の育成とか言っているのは、大体は著作権流通にかかわる業者で、著作権者は流通業者から「先生に印税が払えなくなりますよ」と言われれば、「あ、そうか」と思ってしまう。
しかし、Googleはインターネットという新しい流通手段で、これは利用者が流通コストをいろいろな形で分担しつつ、Googleが蓄積コストをいろいろな形でカバーするという、まったく新しい試みである。
そんなところに既存の流通方法から利潤を得ている業者が「待った」をかけるのも頷けるのだが、その理由に著作権者の保護云々を言い出すのは間違っている。流通業者は著作権者に代わってあらゆる方法で著作を流通させた利潤で著作権者に還元するのが存在意義なので、あらゆる流通方法において制作者のメリットに正邪はないはず。
ネットで検索されて瞬間だけ利用されてしまうコンテンツは所詮はそういうコンテンツなのだ。そういったものでも保管コストをかけて保管するのが文化の保護であろうが、それに膨大なコストをかけるほど既存の流通業者はゆとりはない。彼らがコンテンツのフローで利潤を得る以上、ストックにも何らかの保管コストを回す手段を考えねば、コンテンツは消費を繰り返して消えていくだけである。


ちょっとしたこと

駅から自宅へ向かう途中、タクシー1台が客待ちで停まっていた。
交差点から、50mくらいしか離れていないところで、反対車線には信号待ちの車がいるため、交差点から出てくる車が通れない。
そこは路地からの出口にもなっていて、路地にも車が数台待っている。
お客さんは、足の悪い人のようで既に車内にいたが、付き添いの人が車椅子を折りたたんだり、トランクに積んだりするために、乗車までの時間がかかっているようだ。
待っている車は仕方がないなぁと思っているのだろうが、気になったのが、そういう状況を知ってか知らずか、運転席でじっと待っているタクシーの運転手の態度である。

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人を裁く

裁判員制度がいよいよ始まるが、新聞等では裁判員になって自分が人を裁けるのか不安であるという意見が多い。
しかしこれには大きな誤解がある。
そもそも刑事裁判とは、証拠として提出された事象の真性を判定し、証拠から積み上げられた犯罪のストーリー(構成)をもとに被告人の犯した罪を定め、これに応じた量刑を与えることが役割である。裁判官及び裁判員の役割は、罪があるかどうかを多様な視点で検討し判断するところにあるのであって、被告人が「悪い奴」かどうかを決めることではない。
つまり、裁判とは人を裁くのではなく罪を裁く場なのである。裁判所はきちんとした啓蒙活動をすべきであろう。


ルール

最近、ルールが厳しくなったという話をよく耳にする。
卑近な例では、駐車違反や飲酒運転だが、食品の消費期限とか原材料の表示とか、・・・枚挙に暇はない。
ペコちゃんで知られる不二家のケーキに消費期限切れの牛乳が使われていたということで騒ぎになっている。
消費期限の本来の趣旨は食品の安全確保なのだろうが、この安全水準をどこに置くかによって、ルールの意味づけが異なり運用も異なる。消費期限が過ぎたら絶対に食品として用いてはならないのか、それとも用いないほうがよいのかというレベルの違いは、市場がルールに期待しているレベルと規制を受ける側が考えているレベルとの違いだけではなく、法が目指しているレベルとを含めて3つの違いがあるのではないか。
つまり、
(1)「市場が期待するレベル」>「法が目指すレベル」>「規制を受ける側が捉えるレベル」
であれば明らかに違反だが、
(2)「市場が期待するレベル」>「規制を受ける側が捉えるレベル」>「法が目指すレベル」
であれば単純に取引上のスペックの問題であり、
(3)「規制を受ける側が捉えるレベル」>「市場が期待するレベル」>「法が目指すレベル」
であれば、企業のブランド競争力の問題である。さらには、
(4)「法が目指すレベル」>「市場が期待するレベル」というのは過剰規制である。
本来、法が目指すべきは「規制は最低限」の原則でなければならないから、(2)(3)であっても、法が目指しているレベルが高すぎた場合には、本来は(2)となるものが(1)やひどい場合には(4)になる可能性がある。
1月18日に弁護士会館で開催されたシンポで、講演者の一人であるHP社の佐藤氏が、「ルールは絶対に守らねばならない。だから善人が守れないルールは作ってはならない。」という話をされていた。本来の善人でもルールが悪人にしてしまうという含意がある。「品質の向上は競争で、消費者の保護はルールで」という原則は貫きたい。
さて、消費期限の持つ意味なのだが、その期限の決め方は適切なのだろうか。過剰規制になっていないと誰が言えるのだろうか。このような規制は一旦作ると「緩めよう」という声は出しにくい。規制の評価は難しいのである。だから、消費期限ではなく消費者に判断の余地がある製造年月日に戻しませんか。


内部統制保証の水準

日本の内部統制評価制度は、(いまのところ)「監査」の水準を保証することになっている。
監査である以上、内部統制が「適正・有効」であるという結論に達するまでに監査人は意見表明するに足る心証を得るために監査手続によってそれなりの監査証拠を得なければならない。
内部統制が「適正・有効」であるということは、「財務情報の重大な虚偽表示をもたらす可能性のある重要な脆弱性がない」ことを意味するのだが、そもそも日本の・・・というより世界的にもそうだろうが・・・財務情報の重大な虚偽表示の基準は定められていない。というのも、監査が無謬つまり絶対的水準の保証ではなく、あくまでも利用者が投資意思決定にあたって財務情報を利用する際に企業実態を誤解するか否かという合理的水準での保証を求めているからだ。
ケースバイケースの判断事象をあらかじめ一つの割り切った条件で決められるほど企業活動は割り切れる代物ではない。会計基準がしばしば変わるのも、多様多態な企業活動をいかに一意に数値で表現することが難しいかを物語っている。
そもそも重大な虚偽表示の基準が分からないところで、その虚偽表示が発生する重要な脆弱性がないと言うことは論理的には困難だ。だから、財務諸表監査と内部統制監査は同一の監査人が同一の水準を設定して実施するのだというのは、趣旨として理解できるが、判断基準がないところで自分で基準を決めて判断しろというのは、制度が社会的な利害調整を図るという責任を放棄している。これは根源的問題である(問題点1)。
日本の基準がダイレクトレポーティングを採用しないとしても、「経営者による内部統制評価は適正である」という以上は、間接的に企業側の評価行為に対して圧力を加えざるを得なくなる。まして企業側と監査人は監査範囲等についてしっかりと協議しなければならないというおせっかいまで言われれば、なおさらだ。相互協議によって「それでいいといった」と言われないためにもなるべく監査範囲を広くカバーしようという態度になり、結局は企業の膨大な作業に繋がってしまう。経営者の評価が適正であると言えるためには、監査人は、経営者評価の結果として重要な虚偽表示が発生しないと言い切れる必要がある。それは行き着くところしては、経営者の判断を尊重しつつも最終的には監査人が満足するだけの手続水準を、企業の内部監査部門が確保するという前提があり、経営責任であるところの内部統制の構築に、外部監査人が責任を負うことになってしまう(問題点2)。
仮にある水準で重大な虚偽表示とされる線引きがなされるとして、内部統制の重大な脆弱性がないと言えるのであれば、その上なぜ会計監査が必要なのかという素朴な疑問にぶつかる。
逆に内部統制が適正・有効であってもなお重大な虚偽表示リスクがあると想定されるのであれば、監査制度が自己矛盾を内包することになる。他方、内部統制が部分的にでも有効でなければ監査人はテスト範囲を拡大してまでも財務諸表に対する意見を表明する努力をしなければならない。結果的に十分な証拠が得られなければ意見不表明という選択肢も用意されているが、そもそも経営者の責任である内部統制に重大な脆弱性があると判断された時点で、監査人は財務諸表監査の前提が崩壊しているとして意見を表明すべきではないはずだ(問題点3)。
そういった原則が曖昧なまま制度が構築され、問題が発生すれば「結果責任」と称して、粉飾だ、罰則だ、懲役だと騒がれては、責任を負わされる側である企業経営者と監査人は相互に保守的にならざるを得ない。それが米国で問題となった膨大な(非生産的)文書化作業と枝葉末節な領域をカバーする監査手続の拡大へと繋がったのである。
日本の基準は米国と比べて「効率的」と(基準を作った人たちは)言うが、米国で起こった多大なコストを強いた問題の根源はダイレクトレポーティングをやるとかやらないといった制度設計の問題ではなく、もともと白と黒の境界がハッキリしないものをハッキリさせろというときにその線引きが明確に示されないまま制度を導入してしまったところにある。だから米国基準PCAOB#2はそういった曖昧さを排除する形で修正更新され、経営者評価を監査するという意味のない過程は排除され、ダイレクトレポートに収斂されようとしている。
米国の失敗の教訓は、日本では残念ながら活かされないのだろうか・・・。