「関係の空気」「場の空気」

冷泉彰彦(著)講談社現代新書(2006年)

著者はアメリカで日本語を教える立場にあり、外国人に日本語を教えながら日本語の持つ特性を考えているうちに、タイトルの「空気」
の存在そして日本語が「空気製造機」であることに気がついたようだ。

「関係の空気」とは一対一でのコミュニケーションにより発生する「空気」であり、「場の空気」
とは複数の当事者間のコミュニケーションによるものと定義されている。「空気」
とは関係性を支配する持っているべき共通認識のようなイメージで捉えるといいだろう。

「関係の空気」とは、例えば、夫婦間で(夫)「あれ、やっておいてくれた」(妻)「あ、ごめん。こっちもいろいろあって・・」
といった第三者にはよく分からない会話でも、過去の会話や経験の共有の蓄積により会話が成立しているから、
むしろ隠語や略語などを使うことは関係性の強化に繋がることもあるから、ポジティブに捉えている。

他方、「場の空気」は、例えば会社の会議で、(上司)「例の件、よろしく頼む」と言ったときには、参加者は「はい、分かりました」
と言っても、「例の件とはなんですか」と言えない「空気」がある。これは、
そういった隠語がコミュニティの結束を確認するという行為であると同時に、あえて「例の件」について質問する行為が「水を差す」ことになり、
また質問者が議論の埒外に置かれてしまったり、その可能性があることから、聞いてはいけない雰囲気を醸し出してしまう。これを
「日本語の窒息」と呼んでいる。

著者は、日本語を公私の区別を持った言語であり、きちんと「です・ます」調でしゃべることをあえて提言している。そして隠語、
略語の公的な場での使用は、使えるかどうかを確認した上で、あえて使わないように努力すべきと主張する。そうすることが、会話の参加者の
「日本語が対等」になるので、コミュニケーションに奥行きが出てくると言っている。

また、学校などでも先生と生徒が「タメ口」で話すことを憂慮し、教師は「です・ます」の丁寧語でしゃべること、
そして教師は尊敬語を使わせること、その前提として尊敬語を使われるような勉強をすることを主張する。
それは学校においてあるべきコミュニケーションを生み出す基になる。つまり生徒は分からないことがあれば、
教師に経緯を払いながら鋭く切り込むこともできるし、
教師は教師という立場において質問されたことに対して曖昧ではなくきちんと答えるという役割を果たさねばならないが、
それがいまの学校には欠けているという。

尊敬語は、上下関係を強調するからあまり使いたくないという意見が多いことに対しては、
本来の社会的立場の認識をきちんと確認した上で対等にコミュニケーションする手段として尊敬語が必要であると説いている。

本書は古書店で偶然手に取った本だが、なかなか含蓄に富んでおり自分の得るところは大きかった。特に職場で丁寧語で話すことが、
場を作るうえでいかに大切であるかを改めて理解した。親しみの表現手段が必ずしもタメ口ではなく、
むしろそれは組織権力によって場を圧殺しているという点については、自分は反省しなければならないだろう。

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