日本の「安心」はなぜ消えたのか

山岸俊男(著)集英社インターナショナル(2008年)
著者は、「安心社会」と「信頼社会」という二つのカテゴリで議論を展開する。
安心社会とは、閉じた人間関係の中で相互に監視され、掟破りをすると村八分などの制裁がある社会では、相手を信頼するということを考える必要のないところでは、結果的にその掟に従って行動することで自分が得をする、「安心」な社会である。
もう一方の、信頼社会とは、色々な人が出入りする中で、ルールを自分たちで作りながら(つまり社会的なコストをかけながら)、善悪を判断し、相互信頼を形成できた正直な人が得をし、特に悪に対しては制裁を加えるため、「信頼する努力が要る」社会である。


日本がなぜ安心できない社会になったのかという点に対しては、「心がけ」とか「品格」といった個々人の心のありように問題を帰属させる世評の論理では解決しないと警鐘を鳴らす。そこには常に「帰属の基本的エラー」と呼ばれる、本当の原因とは異なり相手が「そういう人だ」と思い込むことで原因を見つけようとする人間の行動パターンが潜んでいるという。
本来的には当事者同士が疑心暗鬼でいるよりも協力行動を採るほうが、結果的にはお互いが得るベネフィットの合計は大きいので、自分が協力的であったときに相手に裏切られるという懸念が協力行動を躊躇させるという「社会的ジレンマ」を解消するように仕向けることが、信頼社会を形成する解決方法であるとする。
著者は、この考え方を説明するために、武士社会と商人社会というアナロジーを使っているが、一つ忘れている点があるのは、武士社会といっても戦国までの時代と徳川時代とで大きく異なる鎖国の問題である。少なくとも、戦国までは武士も商人も利害得失で動いていたはずである。徳川時代に入り鎖国によって日本国内は確かに「安心社会」になったが、200年の後に世界の動きから取り残されるという大きな機会損失の顕在化を経験したのである。
もうひとつジェイコブズの「市場の倫理・統治の倫理」を説明に用いているが、こちらの方が説明としてはわかりやすいだろう。ジェイコブズの二つのモラル体系を混在すること、つまり統治者が商人のように振舞い、商人が統治者のように振舞うときに、モラル体系の崩壊が始まり、社会から信頼の枠組みが失われていくという著者の視点が、本書のテーマである。大儀のために私心を去るという武士道的考え方は、「御家大事」「嘘も方便」となり、社会的信頼よりも組織の中での存在を勝ち取るための行動を肯定してしまう。商人がそういう論理を使い出すと、偽装問題や品質問題に繋がるわけである。
情報があふれる現在の世の中では、不利益情報をいくら開示しても別の人格で市場参入することが可能なので、それ自体はあまり意味がなく、むしろ信頼を蓄積していくことがネットワーク拡大社会においては重要になってくる、またそういった人たちが得をするような世の中にしなければならないという。つまり、信頼の蓄積が信頼を生み社会的コストを下げるだけでなく、拡大により機会コストを低減するという考え方だ。

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