江戸の大普請—-徳川都市計画の詩学

タイモン・スクリーチ(著)森下 正昭(翻訳)講談社(2007/11/29)
江戸の歴史は、太田道灌が中世に城を築いてから始まるが、本書は家康から始まる江戸時代における「江戸」という街とブランドをどのように形成して行ったかという話である。
原文は英語らしいが、翻訳書とは思えないような読みやすい日本文で書かれている。


江戸は、城塞都市としての役割は戦国時代が終わりを告げたことで、その必要はなくなった。一方、京がみやこであるというイメージを払拭し江戸こそが首都であるというブランドを確立するために、都市政策が行なわれたとする。
易学的には、邪気が北東から南西へと流れていくため、鬼門である北東には、東叡山寛永寺を建立し、裏鬼門である南西には増上寺をいまの場所に移設することで幕府の菩提寺とした。寛永寺の先には、吉原や小塚原の刑場という忌むべき場所ができた。これは、東叡山という名前が顕しているように、京都の北東部に比叡山延暦寺があるのを模して行なわれたものらしい。
日本橋は、一段高く作って見晴らしがよくなるようにして、千代田城の天守閣と富士山とが風景に旨く入り込むようにした。それは、京都からは富士山は見えないため、富士山が見える街としての江戸を日本橋を利用して確立しようとしたものだ。実際の天守閣は、17世紀後半の振袖火事で焼けて以降は再建されていない。将軍は見られる存在ではなく、隠れることで権威を保つ存在にならなければならなかったからだ。
このような記述があるが、但しそれぞれ根拠となる論文や新たな事実の発見に裏付けられた学術書ではなく、一つの読み物としての位置づけで、軽く読める内容だ。
浮世絵や版画などによる江戸の風景画が沢山入っており、カラーにされていないのが残念だった。また、そういった絵画の出典が海外の美術館などが多い点も日本人としては残念である。

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