終戦記念日

もはや何の日のことなのか分からない若者も多いと聞く。
確かに、戊辰戦争のことを言われても自分にはピンとこないことは否定できないので、彼らのことをとやかくいうつもりもない。が、やはり歴史は何かの因縁でどこかで繋がっている。

例年、黙祷だけはするのだが、今年はあえて何もしなかった。戦争とは関係なく、これからの自分の人生をどうしようかということを、薄らぼんやりと(言い換えれば、もやもやと)思考していた。

どうしても故郷のことが頭から離れない。身体は30年以上も離れていて、時折親族を訪ねていくだけだ。祖父母も既にいないし両親も関東なので、従兄弟が数人。友人はほとんど地元を離れてしまい、むしろ東京のほうが多い。風景も道路も橋もかなり変わってしまったところもあり、ショッピングモールなどが新しくできたのはさっぱりわからない。特に、子供の頃の楽しみであった街なかのアーケードは他聞に漏れずシャッター通りとなって、街の衰退を象徴している。かつてのデパートも映画館も空き地になっている。周辺の道路が綺麗に整理されて道幅も広くなっているのと対象的な光景だ。

戦時中、炭鉱や化学工場を中心に米軍機による空襲に遭い焼け野原になったのだが、戦後は明治以降の石炭産業が傾斜生産方式の恩恵もありピークを迎えるとともに、先人の賢慮だろうが化学工業への転換を果たして高度成長の波にも乗った。戦後日本の復興の象徴のような街でもある。

いま思えば自分が子供の頃は街の最盛期だったことになる。今風に言えば企業のCSR活動で、街なかのゴミ拾いをしたり運動会をしたり、企業中心の行事が盛んだった。小学校の入学のときに工場の中に入って黄色い傘をもらったのを思い出す。昭和60年まで人口は増え続けたが、そこから人口は減少する一方だ。平成の大合併を経て隣町を合わせても数は減っており、同時に高齢化が進む。

そういう最もいい時期に育みを得て学生時代に上京し、そのまま30年の時を過ごしてきた。こどもが小学生になるときに一度帰郷を考えたが断念。それ以降はあまり故郷のことは考えないようにしていた。40歳のときに同窓会幹事もあえて目を逸らしていた。五十歳でふと自分を振り返ると、それで良かったのだろうかと。後悔をしているわけではないが、むしろ、あと平均寿命まで生きるとして30年をどう過ごすか、あくまで前向き思考である。

終戦の焼け野原からの復興を支えるほどのエネルギーは微塵もないし、そういう時代でもないが、せめて子供の声が聞こずセミだけが鳴いている公園の草むしりをするくらいのことなら、お荷物にならない程度にお役に立てるのではないかと考えたりする・・・・そういう終戦記念日を過ごした夏休みだった。

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