だれのための仕事――労働vs余暇を超えて


哲学者でありエッセイストでもある著者の言説は、もちろん「だれのための」という問い自体を横に置く。
サブタイトルが示すように、「しごと」を労働と捉え、それ以外の時間を余暇と考える思考方法は、資本主義が資源の効率的配分と利用とを目指す仕組みの中で生まれた考え方で、さらには『余暇』も単に無為に過ごすということなく、『家族と楽しく』とか『自己の充実のために』過ごして明日の英気を養うこと自体が、労働中心のものの考え方(=強迫観念)であるとする。最大限無駄のない時間の使い方、あるいは手帳の空白という生産性の妖怪に恐怖する現代人の心理状態に厳しい一石を投ずる。
『何をやり遂げたか、その仕事の成果、つまりは成し遂げた業績や生み出した作品が、その人の存在を形作るという観念』の下では、『遊び』は時間の無駄遣いであり、『定年退職』は生きがいとしての仕事の喪失を意味する。
ひとはそうして労働に自分の存在を見出すようになり、自分らしさという幻想を求めるようになる。ところが『自分らしさ』を自分の中に求めても、そのようなものは見つかるはずもない。なぜなら、自分とは他者の他者としての自分なのであって、周囲との関わりなくして自己の存在に気づくことはないというのが著者の考えだ。ボランティアという『仕事』はまさに他者との関わりを求め、その中で自分が確固として感謝されるという体験を求めているという。
ネパールでボランティアをしている友人が、二度目に訪問した時に言っていた。「何かが違う、自分は感謝されるものかと思っていたのに。あれこれがほしいと要求される。」

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