寅さんの呪縛

昨日は文化の日。NHKTVで渥美清(本名:田所康雄)の生涯をやっていた。
晩年、「もう、寅さんでいることは、飽きちゃった」と漏らしていたらしいが、他の映画やドラマを紹介、企画されつつも、やるかどうかにずいぶん悩んだ末、病気のこともあって寅さんシリーズに専念し、天寿を全うされた。
「アメリカ映画『スーパーマン』の撮影現場で、子供たちが『スーパーマン、飛んで飛んで』」と叫んでもね、スーパーマンは飛べないんだってさ・・・、針金がつながっていないとね・・・」
という当人の談話をエピソードとして交えながら、偶像で飾られた自分のイメージ(渥美清=寅さん)とそれでい続けなければならないビジネス(松竹映画)の論理と、なんとなくそこに居心地の良さを感じている自分(寅さんで売れた自分、あるいは観衆が喜んでくれている実感)と、本質的な自己(田所康雄、寅さんは渥美清の役柄)との葛藤がもろに出て、とても考えさせられた。
本名と芸名と役柄の葛藤である。個人と職業と社会的期待の葛藤と言い換えることもできる。
例えば「名優」「かわいいアイドル」「優秀な学者」「有能なビジネスマン」というイメージは、当人の環境が作り出すものであると同時に、当人が勝手に思い込んでいるイメージ(=私はかわいいアイドルである)でもある。しかし周辺環境との協調を重視するあまり、思い込みイメージが強調されて強迫観念のようになってしまう。
寅さんが芸人としての役柄なのか、本人のひとつのアイデンティティなのか、周辺の声があまりに強いと、だんだんと区別がつかなくなっていくのだろう。
つまり、「寅さんでなければならない」「自分は有能なビジネスマンでなければならない」といった無意識の強迫観念が、本質的自己と離れた役柄を演じ続けざるを得なくなっていき、いろいろなところで思考や行動に制約を加え、本質的な自己との葛藤が生じてしまうのだ。そうなると、最後に自己は破綻するしかない。渥美清はそれを感じていたのかもしれない。
そこから脱却するにはどうしたらよいか、それは環境を変えるために、休むことである。そうすれば、強迫観念によるイメージは「過去形」で捉えられるため、「元アイドル」「脱サラ」「Uターン組」など新たなイメージで再出発が可能である。安易だろうか。

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