自分が自分であるとどうやって証明するのか

被災者には上限があるものの預金者であることを証明できれば通帳等がなくても引き出しができるようにする措置が採られている。
しかし、被災した人が必ずしも身分証明書を持って避難したとは限らない。むしろとっさに退避行動をとるときに身分証明書を持つなんてことは考える人はいない。
自分が同じ立場だったらさぞ困るだろう。
例えば職場の同僚を連れてきて、「この人は間違いなくXXXXさんですよ」と言ってもらってもそれが本当かどうか分からない。まして、実は同僚もぐるかもしれないし。
実は、「私がXXXXである」というセンテンスには二つの命題が含まれている。
命題1 「私」という自然人には、親がXXXXという名前をつけた。
命題2 権利者であるXXXXとは、ほかならぬ「私」という自然人である。
しかし命題1はその後に、「と私は信じて今まで生きて来た。でも戸籍と私とを繋ぐものは本籍地に住んでいるということしかない」が続く。
命題2は、他にそれを主張する人がいない限りは真であると推定されるが、そうでなければ争いになる。つまりは争いのない世界は相手の主張を信じることで成立しているわけで、信用を得る努力(リターンを得る)とともに信ずる努力(リスクをとる)も必要だとわかる。
人は「いまここ」にいる人たちと信じあわない限りは、存在すらし得ないものなのかと思うと、認知症になったら自分の名前も分からなくなって、どうするんだろうなと不安になる。

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