ご縁というもの

昨年は学生時代のゼミの恩師や就職依頼お世話になり続けた恩人が亡くなったりと、悲しい思いが続いたが、一方でそれがキッカケということも含め、長らくご無沙汰していた人に会う機会も増えた。

半年前にはゼミテンが恩師の葬儀で集まり、昔話で先生を偲んだ。(20年ぶりの人も)
秋口にはFacebookで大学院の同窓生が、カンボジアで大学の先生をしていることを知る。(卒業以来10年ぶり)
年末にはやはり大学院の同窓生が3人集まってランチ。(これはよく会っている)
先々週は、中学校の同級生がジャズバンドをやっているのでそれに友人から誘われて、4人の同窓会が実現。(一人は20年ぶり、他も数年ぶり)
来週は、大学卒業以来の友人が同じビルの違う会社にいることがわかり、一緒にランチをすることに。(30年近い)
同じく、大学院でお世話になった先生のサプライズパーティに参加。(10年ぶり)

縁は異なもの味なものというが、まさにそれが体現されている。

私自身が人生の転機なのかもしれない。何かの力が何かに向けて自分の背中を押しているような気がしてならないのだ。


年賀状書き

毎年恒例だが、今年は仕事納めが早かったので年賀状書きを先送りにして今日になった。

ハガキを買うのもつい先日のことで、郵便局に行ったら「普通紙」はもはや売り切れでインクジェットしかないらしい。
今どき、宛名を手書きする人はいないのだろう。

かくいう自分は過去に数回ほど宛名印刷をしたことがあるが、いまは手書きに戻した。データのメンテナンスが面倒で、いわば年賀状だけのためにデータをメンテするのは何となく馬鹿げているようであり、むしろ手書きのほうが住所などを思い出せるし、何かの時に直ぐにハガキの束から探しだすことができるメリットが大きい。

文面は1年の振り返りと家族仕事趣味の近況報告としてある。


ガス給湯器交換完了

家全体が古くなっているので、給湯器のスイッチが新しいのが却って違和感がある。

しかも、前の装置は風呂に湯が溜まるとピッピッと音が鳴るだけだったが、今の装置は「お風呂が沸きました」と日本語で言ってくる。風呂が喋るなんて違和感あり。


デジタルディバイド

Digital Divideとは、もともと15年くらい前に、デジタル機器を利用した豊かな生活(仕事も含む)を享受できる人と、その恩恵に与れない(貧しい)人たちの違いを言っていた。
いまでも、通信インフラが貧弱な地球上のどこかで生活している人たちはたくさんいるし、たとえインフラがあってもそれにアクセスする端末が利用できない人の方が多いかもしれない。日本だってちょっとでも田舎の山道に入れば、携帯電話がつながらない場所はいくらでもある。

最近、このデジタルディバイドという言葉に、使える環境にあるかないかという意味とは別の意味を抱くようになってきた。

それは、使える環境の中にある人でも、あえて使っていない人や選択的に用途を限定している人もいるという事実と、その裏腹として、自分の意思とは関係なく使わされている人と、使わせている人がいるという事実である。

自らの選択肢
ありない
他者の意思ありATM/ネットバンク
電子マネー
(私的取引の世界)
ネット広告
業務上のメール
監視カメラ
(支配被支配の世界)

なしゲーム
趣味のプログラミング
ブログやHPの公表
(オタク的世界)
交通信号機
(ルール的支配の世界)

表は、あるデジタル機器や環境を使っているときに、自分の意思と他者の意思とがどのように関係して利用しているかという視点で整理したものである。
他者の意思にかかわらず自分の意思だけで利用する形態を「オタク的世界」と名付けた。この象限にいる限りは、ネットワーク社会からは孤立した存在にはなるが、他者から干渉されることはないので、平穏な世界と言えるだろう。
いったん、他者の意思を受け入れるようになると、「取引の世界」に入っていく。ここは、双方の合意があって成立する世界なので、お互いが誠実であることが第一義的に求められる。
しかし、自らの意思がないところでは、一方的にその環境に入らざるを得なくなる。そこは「支配被支配の世界」であり、支配する側の力が過剰にならないようにする、換言すれば支配される側が合意できるレベルに落として「取引の世界」に持っていくか、あるいはあるルールに基づいて運用する「ルールの世界」に持っていくかが必要になってくる。

特に電子メールは、かつての電話時代に相手の活動時間を見計らって電話するといったマナーがあった古き良き時代(これは言い換えれば取引の世界に近いものかもしれない)と異なり、時も場所も構わず送信できる利便性があるために、得てして送信側は自分本位になってしまう性質を持つ。自分はたった一通だがとても大事なメールを送ったつもりかもしれないが、相手は毎日千通のメールと格闘しているかもしれない。
電子メールで主体性を持つためには、「読むメールを選択する」ということにつきるし、送る側は読まれる工夫をする前に、どうすれば「意図」が伝わるのかをメールという手段を前提としてしまう(これも選択肢を失った依存症である)のではなく選択肢の一つとして考える必要がある。
つまりは、現代社会ではデジタルの世界の中で、いかに主体性を持つかということが大きな課題になるということが見えてきた。


KLにいってきた

クアラルンプルに出張だった。
水曜日に仕事をして、夜の便で出発し、木曜朝にシンガポール経由でKL入り、金曜日の午後まで研修があり、その日の夜にシンガポール経由で土曜日朝に東京着というスケジュールだった。
土曜日が休みだったが、少したまっている仕事を処理するのと荷物を置いていくために、職場によったが、0730という早朝なのに既に仕事をしている人もいた。

今回は事前調査が不十分だったので、かなわなかったが、KLIAからKL市内をつなぐ高速鉄道ができているようで、それに乗り損ねた。市内までは速いがそこから目的地までが渋滞して時間がかかるようだ。地下鉄も研究しておかねばならないだろう。

そして、シンガポールの夜景を二度眺めたが、きれいなのはきれいなのだが、あまり感動がない。むしろ、KL市内のやや開発中でごちゃごちゃした雰囲気の方が好きなのだ。

帰路のトランジットは、チャンギ空港の第二ターミナルの端から端まで乗り換えのために歩いたが、とても時間がかかり、既に改札が始まっていた。ゆえにチャンギ空港の中をゆっくりと見る間もなかった。KLIAでもう少し早い便に変更しておけばよかったと後悔している。

さらに、相変わらず右耳の耳管が詰まっているらしく、気圧の変化でおかしくなってしまい、色々と触っていたら、急に聞こえるようになった。その後、左耳が気圧変化で聞こえなくなっても右耳は何とも感じないので、(たぶん)また鼓膜が破れたようだ(苦笑)。