赤外線で発電

小学生の頃、太陽電池発電に憧れて2センチ5センチ位の素子を買ったことがある。
あれから随分と技術は進歩したが、太陽電池というアイデア自体はまったく変化していないものと思っていた。
つまり、可視光を捉えて電気エネルギーに変えるという考え方だ。

しかし考えるまでもなく、可視光か赤外線などの不可視光なのかは単に波長の違いであって、それをエネルギーに変える物体があれば、「見えない太陽光」であっても発電はできるはずだ。そんな当たり前のことを今朝の新聞記事を読んで知らされた。

理屈の上では暗くても赤外線だけが飛んでいる状態でも発電は可能だ(効率は悪いのだろうが)。

どうやら子供でも知っていることらしい。

ディスカバリー研究所 太陽光発電に近赤外光が仲間入り
http://discovery-lab.com/archives/1093

赤外線でも発電できる、太陽電池の新色素
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1411/05/news071.html


退職後のこと

先頃、定年退職された方とお話をする機会があり、ちょっといい話を聞いた。
退職後にどういう生活をするかは、退職して考えても手遅れで、若いうちから準備が必要というのはよく言われる。
その方は、日頃から人に会って趣味の話をしたときに、その人の趣味をメモにとって家に帰って次のような表に整理していたそうだ。
縦軸 一人でできること or 人と一緒にすること
横軸 屋内ですること or 屋外ですること
厳密に分類は難しいかもしれないが、その表には30くらいの趣味が羅列されているそうだ。奥様とハイキングをされたり、篆刻をされたりと、既にいろいろとご活躍の様子。これからの人生を楽しまれることだろう。


救援物資も必要だが

やはりこういうときに問題になるのは、輸送手段。
特に鉄道などがない場所では、トラック輸送に頼らざるを得ない。
いくら物資があっても、輸送手段がなければ、使い物にならない。
しかし近距離なら車がなくても運ぶことはできる。
そう。リヤカーがあれば。
しかも、老人など動けない人を輸送することだってできる。
最近はあまり見なくなったが、壊れた自転車二台と鉄パイプと溶接機があれば簡単に製造できそうだ。
ということは、災害対策用の倉庫にも一台は入れておくべきだろう。
昭和の初めの頃の風景を想像すれば、災害時に必要なものは見えてくる。


計画停電の謎

東北関東大震災で電力不足を招き地域を区切って特定時間の停電措置が採られている。
私など自分のことしか考えない者はまず住居地や職場が影響を受けるかどうかが気になって調べたりするのだが、簡単なようで難しいのが実情だ。停電エリアとして公表されている行政区域が必ずしも電力の供給単位ではないことだ。
電話や電線は必ずしも行政区域に沿って敷設されていない。
それはネットワークの発達を考えれば理解できる。
例えば、電話であればまずは行政に用いられるから、市役所同士を結ぶ回線が作られるので、大抵の電話局は市役所の近所にある。そして、そこを起点にその地域のネットワークが発達していく。いったん形成されたネットワークは、全く異なる新たなネットワークを形成する計画を作らない限り、同じものがメンテされなければならない。つまり移転することが難しい。これは、行政区が統合されたりしても同じことだ。
一方で、大規模宅地造成などするとそこに回線を新に敷設するには、行政区域内の回線よりも隣の行政区から引いたほうが低コストで敷設できることもある。こういう判断の結果は、行政区と電話の市外局番が一致しない問題として現れる。
電気も同じような理屈だろう。
電柱を見ると、番号が書いてあるが、これを見るとどこから電気が来ているのか凡その想像がつくが、必ずしも行政区とは一致しない。
つまりは、電話なら局舎、電気なら変電所が起点となっているので、計画停電などはその変電所単位で行われているのではないだろうか。また鉄道などは独自の変電施設を持っているから、必ずしも地域とは関連しないが、他方、遠方の停電がダイヤに影響するのでそのあおりを受けてしまう。
(3月20日追記)今朝の日経新聞によると、変電所から送電する地域は随時変更されるようだ。つまり一つのエリアは複数の変電所によりカバーされており、随時需要に応じて変更されているようだ。
西武池袋線の所沢駅から練馬駅に向けて地図をたどっていくと、
埼玉県所沢市→東京都清瀬市→埼玉県新座市→東京都東久留米市→西東京市(旧田無市)→西東京市(旧保谷市)→練馬区
という具合に、行政区が鋸の歯のように線路にかかっているのが分かる。この地域は、最も面積の小さい市が並んでいる場所である。
地域の歴史を紐解くと、旧保谷市は、埼玉県に属していた時期、品川区に属していた時期、神奈川県に属していた時期がそれぞれある。


天網恢恢疎にして漏らさず

天のかける網は広く大きく、粗いようだが拾うべきものは拾うということから、悪事を働くといずれ天の咎めを受けるという意味で使われる。
手元の本(奥平・大村「中国の思想 老子・列子」徳間書店)によると、元は老子の言葉で「天網恢恢 疎にして失わず」であり、「天道は自己を主張せずして万物を統括し、命ぜずして万物を適応せしめ、招かずして万物を自ずと帰一せしめ、作為によらずして秩序を形成する。天の網は目は粗いが何一つ取り落としはない。」という意味らしい。
すなわち「なるべくして、なるようになる」ということなのだが、おそらく日本の漢学の歴史の中で「悪事は懲らしめられる」というやや説教じみた解釈がされるようになったものか。
日本では古くから(と思うが)、「お天道様が見ているよ」という躾があったが、最近はおよそ聞かれなくなった。「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」とか「お腹を出していると雷様に臍を取られる」とか、子供にとっては実に分かりやすい言葉で、権威を振りかざすでもなく見えないものに意識を向かわせて自己規律を求める。これらの言葉は日本の文化であったのかもしれないが、もはや死語に近くなってしまった。法とか義務とか難しい言葉でなく子供たちに「悪いこと」を教える言葉は国民的財産なのだが。