日本はなぜ開戦に踏み切ったか


大東亜戦争は日本の歴史における組織決定の失敗として永く記憶に留められるだろう。
それだけ、学ぶことは多くあり、他方、これを先人たちの遺してくれた教訓として引き継いでいかねば、日本人は東日本大震災の大津波と同じような惨劇をいずれ繰り返すだろう。不可避な自然災害とは異なり戦争は人間が始めるものであるだけに、なおさら引き継ぎの努力をすることは日本という国を存続させるために必須であり、歴史教育の真髄でもある。
本書のサブタイトルは、「両論併記」と「非決定」(非決定については本文中ではあえて、非(避)決定という書き方がされている。)であることからも分かるように、組織の意思決定がどのようになされていったかの分析を通じて、特定の人物に責任を帰する議論ではなく、関係者の諸々の行動が結果的に何を生み出して開戦を招いたかというスタイルで分析が進む。
第1章
「帝国国策要綱」の策定に当たっての特徴として以下の3つを挙げる。pp.40-41
1.両論併記 一つの国策の中に二つないしそれ以上の複数の選択肢を併記し、多様な指向性を盛り込みすぎて同床異夢を招く。
2.非(避)決定 国策の決定を取りやめたり文言を削除して、決定自体を先送りすることで、対立を回避する。
3.同時に他の文書を採択することで、決定された国策を相対化ないしは、その機能を相殺する。
これらの特徴は日本固有ではない。むしろ米国の研究で「ゴミ箱モデル」として説明されているという。ゴミ箱モデルとは、合理的意思決定モデル(多様な選択肢から最適なものを選ぶ)の対極にあり、場当たり的な意思決定の積み重ねとして説明される。
第8章ハル・ノート
以下のように総括している。
この戦争は、単純化して言えば石油のための戦争だった。
外務省がまとめようとした戦略物資要求量は、1940年6月時点でオランダ政府が蘭印からの輸出を確約した量と変わっておらず、対米要求量も1939、40年実績とさほど変わっていない。
小南方構想(泰・仏印までを勢力圏とする)を実行した後の外交交渉では、「現状維持」が目的であった。そこで政治権力から牧野・吉田など米国理解者が排除される。
しかし、松岡の目指した「革新外交」日独伊三国同盟が、英米蘭を対日石油禁輸に走らせる。目的のない大陸進駐で陸軍は引くに引けなくなった挙句、米国に中国撤退という交渉材料を与える。
その打開策として、それまでの「成果」を無にしないため、欧米列強支配という構造に「さらなる革新」を求めて、真珠湾、マレー進出と突き進んでいった。

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