難しいテーマ

首都圏での通勤はほぼ毎日のように「人身事故により遅れております」というお知らせを目にする。飛び込みが多いようだが、
事故現場が自分が乗る路線でなくても、相互乗り入れしている関係で一箇所の事故が広域のダイヤの乱れにつながる。実に困ったものだ。

でも、電車に飛び込んで自分の命を絶つなんてよくできるなと思う。失敗して片足だけ切れたらどうしようとか、
うまくいってバラバラになった自分の姿を想像するだけで、ぞっとする。そんなに勇気があるなら、
死にたいほどの悩みなど吹っ飛びそうなものだが。服毒なども、市川監督の犬神家の映像が眼に浮かんでおどろおどろしい。
死んだ後まで人に迷惑はかけたくない。

医療の発達した現代社会ではなかなか難しいらしいが、理想的な死に方は、「家族知人に看取られて畳の上で静かに息を引き取る」とか
「ある日ぽっくり」などという。
でもそれが意味していることは単に病気にならず静かに天寿を全うするということ以上のものがあるのではないか。

「理想的」とか「いい」というのは主観の受け止め方だから、その受容(意味づけ)の仕方は時の経過によって変化する。逆に、
脳死とか心停止といった科学的客観的な死は「瞬間」である。だから、客観的ないい死に方というのは多分ない。むしろ、
当人にとっても遺される人にとってもいままでの関係とその後の関係の変化を、お互いがどう受容するかということの方が大事である。
本人にとってはその瞬間に向かうまでの「生き方」ということになり、周囲にとってはその瞬間の前後の変化に対する積極的な意味づけが必要だ。
だから突然に(特に若年の)身内がいなくなってしまうなどは、「理解できない」「まだその辺にいる気がする」ということもあるだろう。

20代の頃、一つ年長の従兄が突然亡くなった。そのときは、訃報を聞いたときよりも、遺体を見た時よりも、見送ってから数ヶ月して
「ふと思い出す」ときに、自分の受けた衝撃に気がついたくらいだ。自分と年が変わらない人が亡くなることを、
こととして受容しきれていなかったのである。自分をかわいがってくれた祖父母が亡くなったときはとても悲しかったが、
後でショックを感じたことはない。受け止め方が全く違うのだ。

(客観的な意味での)死は万人に必ずやってくるが、その宿命は最期までをどう生きるかというテーマを万人それぞれに与えてくれている。
だから、自ら「客観的に」死を選ぶことはテーマを放棄しているように思える。他方、切腹する侍のように「己の生き様」
を示すという考えも出てくるが、社会通念が異なるから単純に並べては議論できない。ただ、殺人や過失事故などは、
他者のテーマ解決を勝手に中断してしまうような行為なので、それは罪になると言えるだろう。

こどもたちに「なぜ、(自分を含め)人を殺してはいけないか」という説明ができるようになりたいのだが、なかなか難しい。

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