ローマ人の物語11・12・13-ユリウス・カエサル(ルビコン以降)

塩野七海(著)新潮文庫(2004/09)
カエサルが、ルビコン河を越えてローマ本土に入り、ライバルのポンペイウスがエジプトに殺されるまでが上巻。
エジプト史絶世の美女(といわれる)クレオパトラと出会い、エジプトの内乱を治め、小アジアで「来た・見た・勝った」を経て、ローマに戻る。そしてローマに大規模な凱旋を図り、いろいろな政策を遂行して改革をしつつ、反対派にあっけなく暗殺されるまでが中巻。
その後、暗殺者たちがオクタビウスたちに追放され、新しい時代パクスロマーナになるまでが下巻である。

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ローマ人の物語8・9・10-ユリウス・カエサル(ルビコン以前)

塩野七海(著)新潮文庫(2004年)

カエサルがガリア遠征し、ドーバー海峡を渡ってイギリス、そしてライン川を越えてドイツまで攻め入り、現在の西ヨーロッパを制覇して、再びローマに戻る直前までのストーリー。

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ローマ人の物語6・7--勝者の混迷(上・下)

塩野七海(著)新潮文庫(2002年)

第三巻はポエニ戦役終了後からローマが地中海全域を支配下に治めるまでの歴史である。
実は、いままでの中で最も退屈であった。というのも、ハンニバルの戦いのような一進一退の動きがあるわけでもなく、ローマが地中海西域を支配して安定期に入ったときに、国内で発生するいろいろな権利関係の整理の話が多いからだ。

その結果、最終的にはローマ人と同じ権利を持つローマの同盟国で「イタリア人」という概念が発生する。
勝者の混迷というタイトルは、歴史を著す者の困惑をも表現しているかも。

思うに、「社内調整」というやつだ。会社で社内調整が跋扈しているということは、外敵がないか認識していないという解釈もできるわけで、パイの外枠が決まってしまえばパイの分配調整に議論の焦点が移ってしまうのも首肯できる。反対に見れば、社内調整が多くて困っている場合には外部に目を向けてでればよいということなのかもしれないが、こんどはそれが言いか悪いかを議論する新たな調整が始まるのが、腐り始めた組織の常であろう・・・というようなことを考えながら読んだからなのか、退屈だった。


ローマ人の物語3・4・5-ハンニバルの戦い(上)(中)(下)

塩野七海(著)新潮社(2002年)

上巻は、ローマが半島統一されてから、「足の先」にあるシシリア島を完全に制覇するまでの歴史。中巻はカルタゴのハンニバルがガリアからアルプスを越えてイタリア半島に入りローマの喉元まで迫る、そして下巻は英雄スキピオの登場で反撃し、ギリシャを支配下におさめ、ハンニバルを撃退し、最後はカルタゴの崩壊で終わる。

ローマ人、特に軍人が戦争で負けたことによる罰則は緩やかだったらしい。それは名誉を失うという社会的制裁が強かったことが十分に罰則に相当するから。もちろん数年後に復帰する。ローマ人のおおらかなものの考え方の現われなのだろうか、それとも一つの才能を国家として喪失しないための工夫なのだろうか。

ただし、軍律は厳しかったようだ。軍務に関する事項は細かくマニュアル化され、整然と行動することが期待されていた。のみならず、監視中の居眠りなどには、全員が棒で殴りつける、遅刻などが重なると集団で責任を問われる、反逆にはそのうち10人がサンプルで選ばれ、さらにその中から一人が選ばれ、他の9人の同僚が鞭打ち斬首を加えるという「十分の一処刑」が行なわれたいたようだ。著者は淡々と説明している。

逆に戦勝による敵国に対する扱いは緩やかだ。略奪暴行して根こそぎ奪うというものでもなかったようだし、町全体を焼き尽くすということでもなく、賠償金も長期にわたる年賦払いで、賠償金を取ることよりも賠償金をとる関係を継続することに重きを置くなど、むしろ紳士的に対応していることが伺われる。ただし著者がローマびいきであることと、あらゆる歴史、特に古い時代は勝者の立場で記録されたものであるため、やや誇張された面もあるやも知れない。

農耕民族たるローマ軍が海軍国カルタゴに海戦でなぜ勝利を収めることが出来たか。それは「カラス」という船先につけた梯子。敵船に兵士が渡り戦艦同士の戦いを得意な白兵戦に転換させた発明である。筆者は、ローマ軍が農耕民族であったがゆえに船の「形」にとらわれなかったからこのような発想が出来たのだと分析する。主義ではなく現実に対応するローマ人の発想の柔軟さが活きた好例だろう。

著者はローマによる周辺国支配を「緩やかな帝国主義」と言う。すなわち被支配国に対して軍事力を自衛力の範囲に収める以外は、自治権を与え場合によっては信頼に基づく友好関係により支配(といえるのか?)し、被支配国同士を相互に監視させるシステム。軍事的に完全に支配するには当時の水準ではコストが高くつきすぎたのかもしれない。ローマが戦略の要諦である「勝ち」ということの意味をきちんと理解していたということは言えよう。


ローマ人の物語1・2–ローマは一日にして成らず(上)(下)

塩野七海(著)新潮文庫(2002年)

昨年「史記」を読んで以来、歴史の本を改めて読んでみたいと思うようになった。やはり、経営書のようなハウツー本ではなく、実際に人が生きた記録を読むほうが含蓄があり、自由な発想が出来るようだ。

なぜローマなのか。自分の興味分野が「組織の失敗」であり、ローマ史にはやはり国家という組織の興亡があらわれていること、国家の歴史は最大の組織の成功と失敗のケースとして考えることが出来る、もっともよいケースと考えられるからである。

第一話は、伝承によるローマの成立(日本で言うと天孫降臨に相当する)から半島統一までの500年間を扱っている。この時代は日本が弥生に入るかどうかという頃までであり、ローマの歴史の長さや重さを感じずにはいられない。一方、日本のように国家の起源が神話として存在していることも、一つの歴史的事実として好意的に捉えねばならない。

さて、古代ローマは多神教の世界だったらしい。

一神教(ユダヤとかキリスト)では、その教義以外の教えを認めない(すなわちそれ自体が真実であるとする)が、多神教では神が遍在するから、他者にたいして寛容になる。一番大きな違いは、一神教では人はそこに生き方や価値観を求めるが、多神教はただ「救い」を求めるだけであるという記述。多神教世界では宗教の代わりに哲学が生き方を示すことになる。確かに、仏僧(例えば禅導師)が説教することはあっても、神社の神様が生き方を教えてくれるという発想は我々日本人にはない。

筆者はローマが強国になっていった理由として、オープン性を掲げている。これは多神教であることと密接に関わりがあるが、政治システムにおいても少数の賢人が意思決定に関わることで、特定の人物のリーダシップに依存しないことから、戦争でリーダが死亡しても「システム」によって国家を維持できたところ、そして外部からの知の流入を積極的に進めたというよりも結果的にオープン性がそれを招いたということだ。

また、政治システムも「民主主義」とか「博愛、平和、平等」といった教条的なものではなく、あくまでローマ人たちの生き方をベースとした国家戦略(と呼ぶべきかどうか?)を持ちつつ現実に柔軟に対処していったローマの人々を描いている点が、興味深く読めるところである。