ローマ人の物語3・4・5-ハンニバルの戦い(上)(中)(下)

塩野七海(著)新潮社(2002年)

上巻は、ローマが半島統一されてから、「足の先」にあるシシリア島を完全に制覇するまでの歴史。中巻はカルタゴのハンニバルがガリアからアルプスを越えてイタリア半島に入りローマの喉元まで迫る、そして下巻は英雄スキピオの登場で反撃し、ギリシャを支配下におさめ、ハンニバルを撃退し、最後はカルタゴの崩壊で終わる。

ローマ人、特に軍人が戦争で負けたことによる罰則は緩やかだったらしい。それは名誉を失うという社会的制裁が強かったことが十分に罰則に相当するから。もちろん数年後に復帰する。ローマ人のおおらかなものの考え方の現われなのだろうか、それとも一つの才能を国家として喪失しないための工夫なのだろうか。

ただし、軍律は厳しかったようだ。軍務に関する事項は細かくマニュアル化され、整然と行動することが期待されていた。のみならず、監視中の居眠りなどには、全員が棒で殴りつける、遅刻などが重なると集団で責任を問われる、反逆にはそのうち10人がサンプルで選ばれ、さらにその中から一人が選ばれ、他の9人の同僚が鞭打ち斬首を加えるという「十分の一処刑」が行なわれたいたようだ。著者は淡々と説明している。

逆に戦勝による敵国に対する扱いは緩やかだ。略奪暴行して根こそぎ奪うというものでもなかったようだし、町全体を焼き尽くすということでもなく、賠償金も長期にわたる年賦払いで、賠償金を取ることよりも賠償金をとる関係を継続することに重きを置くなど、むしろ紳士的に対応していることが伺われる。ただし著者がローマびいきであることと、あらゆる歴史、特に古い時代は勝者の立場で記録されたものであるため、やや誇張された面もあるやも知れない。

農耕民族たるローマ軍が海軍国カルタゴに海戦でなぜ勝利を収めることが出来たか。それは「カラス」という船先につけた梯子。敵船に兵士が渡り戦艦同士の戦いを得意な白兵戦に転換させた発明である。筆者は、ローマ軍が農耕民族であったがゆえに船の「形」にとらわれなかったからこのような発想が出来たのだと分析する。主義ではなく現実に対応するローマ人の発想の柔軟さが活きた好例だろう。

著者はローマによる周辺国支配を「緩やかな帝国主義」と言う。すなわち被支配国に対して軍事力を自衛力の範囲に収める以外は、自治権を与え場合によっては信頼に基づく友好関係により支配(といえるのか?)し、被支配国同士を相互に監視させるシステム。軍事的に完全に支配するには当時の水準ではコストが高くつきすぎたのかもしれない。ローマが戦略の要諦である「勝ち」ということの意味をきちんと理解していたということは言えよう。

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