長州戦争-幕府瓦解への岐路

野口武彦(著)中公新書(2006年)

著者は長州戦争(山口では四境戦争)という言葉に、敗者の側(すなわち末期の徳川幕府)
から見た二度に渉る長州藩と幕府との戦いを通じて、幕府が如何にしてつぶれて行ったかを議論している。
270年続いた徳川幕府あるいは頼朝依頼700年続いた武家政権がなぜ崩壊したかは、いろいろな観点から議論されているが、本書は、四国
(英仏欄米)による開国の圧力という環境の中で、独自に力をつけて行った長州藩と、
鎖国によって権威を維持し続けてきた幕府を以下の観点で見ている。

1.軍備

歴史の流れの中で、いかに軍備(特にミニエー銃という歩兵銃)を装備し戦い方を近代化していったか。幕府軍は「法螺貝に旗指物」
という井出達もあったらしい。

2.意思決定

第一次長州征討で長州藩の責任者は処分され、一時的に守旧派が藩政を牛耳るが、しばらくすると高杉らの若手が藩政を牛耳るようになる。
これですばやい意思決定のできるところに局地戦での勝敗を決定した。(※長州藩がどのような意思決定機構で動いていたのかは、
よく分からない。)。また幕府においては、松平春嶽などの人材は擁していたものの、結局は政治構想の中で影に引っ込まされている。

3.諸藩の動き

薩長同盟が倒幕の大きなきっかけになったことは否定のしようもないが、薩摩ほどではなくとも長州を攻撃する大義名分が「勅許」
だけであり、意固地になって長州攻撃を決定した幕府に、諸藩は厭戦気分もあって日和見を決めた。
迷惑したのは代々の忠誠を誓う譜代の藩であり、巻末で著者は現代の日本とアメリカの関係に似ているとしている。

総括すれば、幕府側は幕藩体制を維持することが自己目的化しており国家経営という戦略がまったくなかったといえる、
一方で長州など雄藩は貿易により経済を活性化することが国を富ませるということを強く悟っていた。
特に山口は下関という大陸や東南アジアに向かう良港を有していたことも大きい。

人材の活用という点においては、長州のみに人材が偏っていたとすれば長州藩の教育制度が他藩と比べてどうだったのか、
またどうしてそのような仕組ができていったのかを研究する必要がある。逆に諸藩には似通った教育制度が合ったとすれば、それが活用できた藩
(幕府を含め)とできなかった藩の違いはどこにあったのか。その辺の研究は、現在の企業組織とも重なるテーマであり、他日を期したい。

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