デスマーチはなぜなくならないのか IT化時代の社会問題として考える

2017-12-20読了

デスマーチ(死への行進)とは、ソフトウェア開発において開発過程が迷走し収集がつかなくなる状況に陥り、一部の優秀な個人が問題の解決を引き受けることで、完成に向けようという流れと説明されている。
著者は社会学という立場から、自らのソフトウェア開発ベンダーで現場にいた経験も踏まえて、実際に燃え尽きた経験を有するプログラマへのインタビュを通じて問題に切り込もうとする。

そこには、コンピュータが小型化しパソコンと言われるようになった頃に、ゲームなどの遊びを通じてコンピュータの使い方やプログラミングを学び、遊びの延長で職を得て、一人の独立したプロとして開発に携わるようになったプログラマたちが、人生の後半に向けて抱える家庭などの課題とのコンフリクトを起こしていく過程として語られる。そういうプログラマにとっては、人から指導を受けたりすることは能力がないということを当然視しているという。

一方でソフトウェア自体が最終形がはっきりしないまま開発が開始され、仕様変更を伴いながらも最終形に向けて、下請け構造の中で中間業者が「何とかする」というところで、特定の個人への「依存」は強化されてしまう。

そのような形でソフトウェア開発を捉えて、ソフト自体が社会のなかでどのように作られていくべきものなのか再考すべきであるという形で締められる。

論旨は概ねその通りと首肯できるものではあるが、切込みの足りなさもある。

まず、事例として挙げられている「フォトシステム」(仮名)の開発プロジェクトは、この業界の典型例なのだろうかという疑問が湧く。デジタルカメラに対して汎用的に使えるソフトウェアで著名な外資系日本企業での話とされているが、一つの例に過ぎない。世に失敗例とはされないものの、当初の計画を大幅に変更せざるを得ない(得なかった)案件で、デスマーチという形で終わってはいない案件は、たくさんあると想像できる。そういったオーバービューがない中で、いきなり取り上げたプロジェクトを例に、全体を語るのは誤りではないにせよ説得力に欠ける。

さらには、デスマーチの問題は最も言われているソフトウェア開発の意思決定(中途の開発管理段階も含む)の巧拙の問題と裏腹であり、開発者がデスマーチに追い込まれる主たるでもある。しかし開発管理者側の考え方には全く触れられていない(無論、インタビュなどは難しいだろうが、開発構想や工程にどのような「無理」があったかという観点は切り込める。開発者の心理状況や環境に焦点を当てる手法が社会学という立場なのだろうか。

開発の方法論自体はソフトウェア工学の領域でいろいろと研究されている。そういった隣接領域との関連も、触れてほしいところである。

また、ソフトウェア開発というものを社会的に再考するという立場であるならば、パッケージソフトの活用(これも広い意味での開発)や、オープンソースという社会事象こそ取り上げる必要があろう。

情報技術やシステムを取り巻く環境は時々刻々と変化・進歩しているので、社会的観点からという著者の主張は、今後とも必要な姿勢であることは異論はない。おそらく、今後はある領域のシステム自体が他の領域のシステムと相互にやり取りしあって全体の社会システムを構成するという形になりつつある。そうなるとシステムを開発するということの定義から見直す必要も出てくるところでもあり、著者の今後の研究の広がりに期待したい。

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