道探し

道探しと言っても「生きる道」というような高尚な話ではない。

地図をじっと眺めているのが好きで、元々は渋滞時の裏道を探すために始めたことなのだが、何時の頃か旧道や古道を探すようになって来た。

東京の地図をざっと見ると、皇居を中心に、日光街道、中仙道、青梅街道、甲州街道、東海道などが放射状に広がり、同心円状に、内堀通、外堀通、外苑東、外苑西、明治通、山手通、環七、環八と環状道路ができている。

環八より外側は、何時できるかわからない外環道を始めとして、小金井街道、新小金井街道など、いずれも中途半端にしか整備されておらず、環状ではあるものの府中街道は道幅狭く渋滞ばかり、それより外側となると国道16号になる。したがって、環八より外側に住んでいる自分たち「多摩人」にとっては南北の移動が実に面倒で、結局は環八に入っていって渋滞を恨みながら、また外に出て行くという経路をとらざるを得ない。そこで裏道を探すことになる。

地図を眺めると、放射道と環状道のほかに、北東と南西を結ぶ道が見える。例えば富士街道(大山道)。また、都内には「鎌倉街道」と称する通りが色々なところに見られる。豊島=田無=府中=八王子を結ぶ道(横山道)の名残は、まだ田無周辺には名称と共に残っている。

関東地区は、奈良時代には現在の国分寺市を中心に大和朝廷が支配を固めていたが、その後、鎌倉幕府ができてからは、八王子、稲城、深大寺、豊島、石神井などに豪族が拠点を置き、戦国時代に太田道灌が千代田の地に江戸城を築いた。徳川家康が正式に江戸を幕府と定めてから、現在の東京の原型ができるが、多摩地区は江戸幕府の支配からは独立していたようだ。

文献に拠れば、多摩地域は古代には東山道(いまの中仙道に相当)と東海道とに挟まれており、東山道は群馬県を東に抜けて常陸国の石岡まで延びていた。また東海道は相模国から三浦半島の走水(横須賀)を抜けて海路で南房総に渡っており、今でも京都から見ると南が京都に近いことから上総、より遠い北が下総と称され現代の地理感覚とは反対であるところが面白い。

東山道は高崎辺りから南に武蔵路という路がほぼ真っ直ぐに武蔵国府(いまの東京都国分寺市、府中市あたり)に下りていた。つまり多摩から都へは中仙道を使っていたということだ。その後、東海道と武蔵路の繋がりが強くなり、後に鎌倉街道と呼ばれる上州から鎌倉へ向かうほぼ真っ直ぐな路が形成される。国分寺市周辺や川越市辺りでは古代の道路跡が発掘され、それは幅12m程度もある立派な軍事道路であったようだ。

多摩の人たちは、勿論、江戸の町との交流はたくさんあったのだろうが、多摩を中心として見た場合、江戸以前から川越、八王子、羽田、稲城、鎌倉などとの交流もたくさんあり、道もそれなりに整備されていたはずである。ただ余りにも立派な道を江戸を迂回するような形で造ることは軍事目的に利用されることもあるため、江戸幕府への手前、憚られたのかもしれない。

戦後の高度成長期に、多摩地区は急に宅地化が進んでしまったために、道路を拡張する余裕もなく、今では非常に道路事情の悪い地区になっているが、旧道、古道を復活すれば、それなりに便利な道路になるとは思う・・・・というようなことを考えながら、古代ロマンに想いをはせ地図を眺めている。

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