石炭と蛇と風呂

幼少の頃の記憶はほとんどないが、小野田市の本山というところに住んでいた。
ここは、東にある宇部などは海だった古代に半島として突き出ていたところで、その突端に当たる。
その先にあるのが、本山岬という場所で、特に何があるわけではないが、本山炭鉱の坑道入口が産業遺構としてそのまま保存されている。
http://www.city.sanyo-onoda.lg.jp/soshiki/44/40655.html
http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/motoyamatankou.html
http://hasiru.net/~maekawa/mine/ube/motoyama.html


私が住んでいたのは、そのすぐ近くの炭鉱の管理者が住むためであろう社宅で、木造の建物だった。通りから入って右3件目だったと記憶している。
近所には、郵便局、いろいろと売っている「たかお」というお店があり、そこには私をかわいがってくれたおばあさんがいた。当時は電話は各家庭にはなく、何かがあるとこの店で取り次いでもらっていた。近くに小さな養鶏場もあった。
その先は駐在さんと長門本山駅(本山線)である。
今は当然、無人駅で、日に数本の電車が止まるだけだ。でも当時は駅員さんがいた。私が切符が好きだったので、駅で切符を渡そうとすると駅員さんが「あげる」といって回収しなかったことも覚えている(あるいは、勝手にそう思っているのかも)。
半島の岬の突端だけに、そこは斜面であり、下にもう1件の家があって、年の近い女の子が住んでいたような記憶がある。この家に行くには小さな坂を下りねばならないが、遊んでいたボールが転がっていき、追いかけながらとても怖い思いをした。その後の記憶がないが、おそらく、途中の畑に転がり込んでボールは下まで転がっていかず事なきを得たのだろう。
家の前の道路は狭かったが、向こう側は竹林がありそこを抜けたらすぐ海岸だった。ただ、その手前に小さな空き地があって、雨が降ると水たまりができていた。私はその水たまりで遊びたかったのか、道路を飛び出して車にぶつかった。その後なにがあったかわからないが、自分は家のこたつで寝ていたようだ。さらに記憶は飛んでいるが、その事故で私の足の骨にヒビが入りしばらく通院したらしいが、病院に行った記憶はかすかに残っている。看護婦さんが私の足に包帯を巻くときにはさみを使う真似をして、なぜか笑われたのだ。
林の向こうの海岸は石炭がとれた。その石炭が、炭鉱を掘ったボタから流れ出たのか、あるいは沖合の炭層の露出から流れ着いたのかは分からない。が、母親たちが農業用の肥料袋に石炭を拾っては詰めていた。私は石炭と普通の石との区別が当然だがつかない。しかし、砂の上に虹色に光る黒い石を見つけて「これが石炭?」と尋ね、「そうそう」と言われた記憶は残っている。
その石炭は、容積の割にあまり重くない。成人女性が肥料袋いっぱいに詰めて抱えられるくらいだから。私も手伝いと称して運んだ覚えがあるが、それが子供用に小さな袋だったのかどうかは覚えていない。
ただ、家の風呂は五右衛門風呂だった。そう。石炭は風呂に焚きつけるために拾っていたのである。土間で風呂をたく場所があり、石炭を燃やしていたのだ。燃料費はただだったのかもしれない。
田舎ゆえに、壁にムカデが這ったり、猫が台所に入ってきたりしたこともよく覚えているが、一番鮮明に覚えているのは、風呂場の排水溝に蛇が入っていたときのことである。私は風呂の外の溝で、誰かは分からないが近所のおばさんが傍にいて、母親が風呂の水とともに蛇を流したので、おばさんとそれを眺めていた。蛇は水とともに細い溝を流れて行ったが、行き着く先は下の女の子の家である。その蛇の行方が気になって仕方がなかった。
近所のおじさんが写真を撮ってくれたことがある。私はそのおじさんのカメラの構え方に注文を付けた。私の父が、カメラを横にして(横長を縦にして)撮影している姿を見ていたからなのか、そういうことを言ったらしい。おじさんは、「こう?」と聞きながらカメラの持ち方を変えた。
幼稚園に入る前に住んでいた家の話なので4歳くらいまでのことだろう。まことに断片的な記憶だが、なぜか鮮明に覚えていることもある(真偽は不明だが)。

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