伊能忠敬

伊能忠敬が日本測量開始して今年で210年らしい。原図自体は消失したとされていたが海外で数年前に発見されてから復元され、全国で御披露目されている。
その方法が、レプリカをマットに印刷して体育館に広げて展示するというもので、実際にその上を歩きながら、日本全図を見ることができる。


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イメージは写真のようだが、とにかくでかい。圧巻である。
自分のふるさと山口県宇部市には際波という地名があるが、周辺が幕末にどのような姿をしていたかがよく分かった。確かに波打ち際である。その後、宇部市の東にある秋穂で病気になったらしく、いろいろとご縁があったようだ。
宇部付近の伊能図
ソースは米国議会図書館のアーカイブから
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宇部近辺に縁のある人なら分かるが、現在の山陽小野田市になる、舟木、有帆、目出、本山などの地名はそのまま残っている。厚東川を東に見ながら、際波、須恵、妻崎、浜河内といった地名は当時の海岸線であったことがよく分かるが、現在の厚東川の河口から数キロ入ったところにある竹子島は当時は海中の島だった。
東に行けば奥檀(現在の、沖ノ旦)から藤曲、犬尾(現在の居能)、小串あたりは国道190号線にほぼ相当する。
御崎は現在の宇部岬で、すぐ東は宇部空港となっている。その先にある鍋島は長門と周防の国境の島だったが、宇部空港の滑走路延長工事で今は島ではない。

大きな地図で見る
伊能図はシーボルト事件で国外に持ち出されそうになり危うく防止した経緯があるが、幕末期には幕府の役人がイギリスに公式に地図を渡したらしい。イギリスの艦船はその地図が正確なことを掴み、水深と岩礁だけ把握すればよかったそうである。まさに世も末。
その後、明治に入り陸軍省が日本全国を測量して日本地図を制作したが、その基礎になったのは伊能忠敬による沿岸図で、陸軍が作成したのは主に内陸部分ということなので、伊能図は昭和に入って新たに測量されるまではずっと使われていたことになる。
人生について考えさせられてしまう。
追記
伊能忠敬サイト(InoPedia)はこちら

2 thoughts on “伊能忠敬

  1. 伊能忠敬は吉村昭『間宮林蔵』に出てきました。何せ林蔵に測量技術を教えたのが忠敬本人なんで。蝦夷地以北の測量は林蔵が補完しているので、その苦労については多少知ることができました。それだけに、感慨深いです。


  2. 忠敬は蝦夷測量の際に林蔵にあったという「推薦状」のようなものを遺しています。しかし、蝦夷訪問時は特に現地で会ったという意識はなかったようなので、もしかすると林蔵が忠敬に近づく名目として使ったか、あるいは実際にそういうことがあって林蔵が奇貨として忠敬に「売り込み」を図ったのかもしれません。
    でも立派に蝦夷地図を完成し樺太が島であることを発見しているのですから、立派に遺志を継いでいるのでしょう。


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