超限戦 21世紀の「新しい戦争」

超限戦

著者は中国の国防大学の教授や空軍の退役軍人であり、20世紀末1999年に中国語で出版された論文である。
日本では2001年に共同通信社より出版されその後は絶版となっていたが2020年に角川より復刊された。

超限戦という言葉は漢字三文字で日本語でも発音しやすいが聞き慣れない言葉である。ということは日本ではあまり話題になっていないか、ややもすると研究もされていないとなると、危機感を覚えなければならないことは、本書を読んだ最初の感覚である。

副題にある「新しい戦争」とはハイテクを駆使した軍事技術でもなく、ネットワークのクラッキングなどを使ったサイバー戦のことでもない。しかし本書を読めば中国がまさにこの超限戦の意図をもって既に実行段階に入っていることが分かってくるのである。

「戦争とは政治の最終手段である」と言ったのはクラウゼヴィッツだが、国同士が武力を持って戦い力によって相手を服従させる最後の手段として用いられるという考え方がある。しかし超限戦とはその戦争の定義を変えてしまうものだ。相手を屈服させるのに武力行使は一つの手段に過ぎない。むしろ損害が大きい武力行使よりも相手を恐怖に陥れて従わせるという方法が有効であると考えれば、サイバー戦もテロ行為もフェイクニュースを流すのも金融市場を撹乱させるのも、あらゆる全てが戦争の手段となり戦略の実現に向けての方法論となりうるというのが、超限戦の考え方である。

書かれた時期が湾岸戦争の後であり9.11テロよりも前であることから、この本によってアルカイダが勢い付き9.11を招いたという言説もあるようだが、それはミクロな話に過ぎない。もともと湾岸戦争が砂漠の戦争であり実践部隊が陸上で活躍した割合はとても低く、アメリカのハイテク兵器が大量投入された戦争だったが、著者たちが注目しているのは、それらハイテク兵器の性能をアピールする米軍がイラク軍兵士の指揮を削ぐための情報線であったという点に着目している。まさに情報によって戦意喪失させることで勝利を得るという方法が採られた戦争だった。戦争の方法は変わってしまったのである。そこに超限戦の研究の原点があるため、米国との局地戦をどう戦うかよりも、歴史的流れの中でどのような手段を通じて「勝ち」を得るかという考え方が現れているのが超限戦のコンセプトである。

日本はこのような国を相手に戦わなければならないが、それは自衛隊だけの問題ではなく、既に日本国民として戦いの土俵に乗せられてしまっていると認識しなければならないと考えさせられる。しかしそういいながらも、そう考えること自体が、超限戦の罠に陥っているのではないかと考えさせられもする。

後味悪く非常に疲れる内容であり、他の人と議論がしたくなるので、読後、あった人には必ず話題を振っている。


大本営発表という虚構

大本営発表という虚構
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436375/
保阪 正康 著

本書は先般、松山に所要で出かけた際に大街道入り口にあった明屋書店に立ち寄った際に見出したものである。折しも広島原爆忌の前日であり、前日は坂の上の雲ミュージアムにて明治の理想国家建設の一端を見てきたばかりだったので、その末期症状とも言える大東亜戦争とその中での象徴的事象でもある大本営発表という文字が眼に入ったのだろう。

大本営発表の始まりは、昭和16年12月8日の海軍による真珠湾攻撃と、陸軍による東南アジア進出、つまり大東亜戦争の開戦を告げる国の公式発表だった。

当初は客観的に事実を告げる内容だったものが、戦局の悪化に伴い内容を糊塗するようになり、次第に自らを欺くまでになっていく。

今日では組織の上層部が発表する「大風呂敷」とか行政が発する「住民のために・・・」といったメッセージに実態が伴わないことを大本営発表と揶揄することがある。流行り言葉で言えばフェイクニュースだ。

著者の研究では、陸軍参謀本部と海軍軍令部との権力闘争、幹部の責任逃れ体質、国民受けを狙ったメディアなどの要素が絡み合って、大本営発表という大きな虚構が成立したという。

そこには国民を思考停止状態に陥れる以下のような枠組みがある。

1.教育の国家統制
2.情報発信の一元化
3.暴力装置の発動
4.弾圧立法の徹底

これに抵抗しあるいは抜け出そうとするものは、
5.共同体からの放逐
6.生活圏の収奪
という報復を受ける。

こういった仕組み(これは意図してつくったと言うよりはある意思がこのような形になってしまったと言うべきだが)がある国や地域は21世紀のいまでも存在するので、日本の教訓は世界史レベルでは活かされていないというべきだが、そもそも日本でも1〜6に近い状態やあえてそれを求めようとする動きをする者や政党もいないわけではない。

もともと東亜の解放を名目に開戦した日本だが、本来の大戦略(つまり軍事を超えた政治的な目標到達地点)を持たないまま戦争に入ってしまったため、軍部は勝つことだけが目標となってしまい、戦略的に負けたり引いたりすることもできなくなったという面もある。そこは政治の責任であり選挙民の責任でもあるが、ともかくも良識が通らない組織というものの恐ろしさを歴史から学んでおくことは、歴史を繰り返さないためにも肝要である。


linuxでPDFを操作する

PDFtkというツールがある
https://www.pdflabs.com/tools/pdftk-the-pdf-toolkit/

いくつかのフレーバがあり、
GUI版のPDFtk freeは窓版しかないようだ

コマンドライン版のPDFtk Serverはプラットフォームフリーのようだ

QPDFというコマンドラインツールもある
http://pdf-file.nnn2.com/?p=865
http://qpdf.sourceforge.net/

こちらは、印刷制限のかかったPDFの制限解除ができるようだ
https://reject.tokyo/qpdf-delete-pdf-guard/
https://www.virment.com/how-to-set-password-pdffile-using-qpdf/

qpdf --encrypt userpass ownerpass 40 -- mypdf.pdf output.pdf

というわけで当面は、QPDFを使うことにした


予測不能の時代

http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2511.html

予測不能の時代

組織の中での活動が活性化していることを、働く人の身体の微妙な動きをセンサーで感知することで定量的に測定する方法を考案した著者。もともとは物理学(量子論など)を研究している方のようだが、日立の半導体事業売却に伴い職種を転換、IoTセンサデータなどを用いて分析する事業を立ち上げ。

予測不能な時代とは、これまでの経験や成功法則がそのまま通用しない時代。PDCAで言い習わされる管理手法が通用しないのは、それを手際よくこなす前提には変化が少ないことがあるからだ。

不確実性の高い時代には、より高い目的に向かって前向きに取り組む人がたくさんいる組織のほうがうまく行く、またそういう組織はFINEという共通の特徴を持ち、働く人が幸せを感じていることが、センシングから分かってきた。

Flat: 人との繋がりが特定の人に偏らずにバラけている
Improvised: 短時間の会話がいろいろなところで発生している
Non-Verbal: 言葉ではなく動作での相槌などがコミュニケーションで機能している
Equal: 発言権が平等である

「悪い会議」を想像すると、この意味するところは容易に理解できる。

もう一つの議論は、幸せを感じることは一つの能力であり、幸せは与えられるものではないという点である。その能力ある人が「互いに相手のこころの資本を高め合う」ようになるとよい組織が形成される。

そうすると仕事のやり方が、
・目標と現実のギャップを埋めることよりも大義や意義にこだわり手段にこだわらない
・準備を整えてから取り組むよりも、ないないづくしの環境を受け容れて一歩ずつ進む
・目的に向けての合理的説明が可能なときに動くよりも、困難を学びの機会とする
・損失に備えて責任範囲を限定するよりも、新たな人との偶然の出会いを活用し、変化の中にチャンスを見出す
ようになる。著者は効率化を否定しているわけではなく、効率化を求めるほどに幸福化を求めなければ、組織は前向きに取り組む姿勢を失ってしまうと指摘している(p149-151)。

「格差とは量子効果である」という物理学者なりの主張は興味深い。量子の世界では数少ない量子を扱おうとすると、いろいろとイレギュラーな現象が発生するという。量子が集まれば流体になるので量子単位での現象ではなく流体としての現象と捉えられるので、量子効果が消えていく。

これに例えて、処遇における不平等よりも結果としての配分の不平等が大きくなるのは、人という離散的対象(量子)にお金という離散的な移動しかできないものを配分しようとすることにより生ずるばらつきであるというところが骨子だ。

社会の不平等は放置しておくと拡大していくという点についてエントロピー増大の法則に当てはめるのはいささか論理が飛躍している感じが拭えないが、かといって明確に反論するほど読み込んで理解していないので、この点は別の機会に掘り下げてみたい。